義民佐倉宗吾(木内惣五郎)伝
 承応三年(1654)下総印旛郡佐倉藩の藩主堀田上野介正信は領内の農民に
対し過酷な年貢を課した。その為農民たちの困窮はいっそうひどくなり、餓死
したり、娘を身売りする者も出て来た。村々の名主達は少しでも年貢の軽減を
して貰いたいと考え、代官に賄賂を贈ったりしたが、効果はなかった。名主達
は江戸に出て堀田家に嘆願したけれども聞き届けられなかった。公津村の名主
惣五郎は老中の中でも最も信用出来そうな久世大和守に駕籠訴して見てはどう
かと提案した。久世大和守が屋敷から駕籠に乗って出て来る所に進み出て、惣
五郎が願書を捧げた。一応受け取ってくれたが、数日後に呼び出しがあり、願
書は下げ戻しとなった。このままでは帰れないので、名主達は四代将軍家綱に
直訴しようと言うことに一決した。12月20日に将軍家綱が上野寛永寺に参拝す
ると言う情報をつかんだ。下谷広小路黒門前の三枚橋の下に身を潜めて時を待
ち、将軍の駕籠の列が近づいて来たので惣五郎は橋の上に飛び出し、竹の先に
訴状を挟んで差し出した。この罪により、惣五郎夫妻は磔と決まった。惣五郎
の子の男子3人と女子(男装にされて)1人が先に打ち首にされ、惣五郎と妻は磔
で処刑された。惣五郎は自分たち夫婦は困っている農民の為に命を捨てている
ので覚悟は出来ているが、幼い子供だけは許して欲しいと嘆願したが、ついに
許されなかった。その後、堀田上野介正信の妻は懐胎していたが、難産で病死
し、正信は乱心して改易となった。人々は惣五郎の祟りだと噂する様になった。
 岐阜県の郡上一揆も義民たちが駕籠訴して打ち首にされた。郡上踊りは義民
たちを慰霊する為に始まった。先の太平洋戦争では神風特攻隊員が祖国のため
に身を投げ出した。我々日本人にはこのような立派な精神が受け継がれて来た
のである。GHQは日本人の大和魂を引き抜くために、神の存在を否定する科
学と西洋思想で洗脳し、金の亡者で我よしの人非人(慈悲心の欠如した)を作り
上げたのである。
 エイズ、狂牛病等不治の病が発生したり、地震等の天変地異が続発する様に
なったのは、神の裁きが間近に迫った徴である。このように科学が神力には敵
わない事を見せつけられても改心できないか。