数学を理解する為に国語教育に於ける創造性の教育は必要不可欠で有ると考えます。
しかし、国語という科目教育に責任の大部分を押し付けられない事も現実と思います。

例えば、私は義務教育時代の読書はかなり重要だと思っております。
最近は漫画やTVから得る知識も社会的に秀でてきた感もありますが、
如何せん、あまりに受動的に情報が多くもたらされます。
主人公の心の葛藤など、漫画&TVは表情で見せてくれてしまいます。
いや、主人公の姿形まで完成させて動き回ってくれます。
文字による本では、すべて自分の頭の中で能動的に作り上げていかなければいけません。
こうした環境で想像力や観察力をつけなければ、数学を学ぶ上で大きな損失であると考えます。
こうした背景によるところが多々あると考えますが、
昨今の子供たちは文章題を理解し立式する事が不得手です。
情報に能動的に向き合う事が不得手なのです。
意味が訳若布な文章で、問題を解く段階にまで至らないのが現状です。
この状態では将来、社会生活における言葉というのは使用する条件によってその意味合いが変わったり、
言語自体が慣用的に矛盾した表現を内包していたりするのですから、
とても意見を交し合う事は出来ないでしょう。
反面、数学の教科書は、そうした言語の欠点を見事に排除して書かれています。
私は中学校の数学の教科書は、ある意味、国語で出来ない言語能力を育てる基礎として存在する。
と思っております。
したがって数学で論理性を育てることは、実は正しい言葉の理解・表現から始っていると思うのです。
それは国語教育以上に数学教育で必要なことであるとも考えます。

数学が先か論理性が先か? というより、それは
互いに確かめ合いながら螺旋のように昇華していくものだと思います。