>>343
> 実際にそうだからです。
> そうじゃないと機械によってJordanの曲線定理の証明をしたりは出来ませんよね。
話しが変わっていますよ。もともと
>> それ以外の概念は基本的に 全 て 定義可能だと考えるんですよ。
こうおっしゃっていました。
それが、
> 議論に用いるAの性質は(少なくとも一つの本や理論の中では)有限個しかないのだから、
>最初に公理の形で纏めてしまって、あとから前提を追加したり、
>最初に前提しなかったAの性質を無自覚に使ってしまったりしないようにしましょうね、
こうなっている。
これは、むしろ述語を全て定義可能な理論の定義でしょう。

数学自体歴史の関数とかいわれますが、定義であれ、公理であれ、いつも完全から程遠い
状態で数学の活動はおこなわれてきたのではないですか?

> それに数学は「自分の立場を固守するゲーム」ではありません。
数学はそうかもしれない、しかし議論で扱われるときには、こういう立場(固守する)も認め
られなくてはまずいとおもいます。安易な同調では真理へのみちはないとおもうからです。
徹底して考え議論した後、相手の主張を認めるということはもちろんありえます。

> それは数学では、人によって定理の証明が正しくなったり誤りになったりはしないからです
これは同意できないです。
ワイルが小平邦彦に語った話しが小平の本に載っていました。ワイルはある証明を、彼が直観主義者
であることによって認められないから、違う証明を考えたそうです。ですから人によって定理の
証明が正しくなったり誤り(不適切)になることもありえます。
さらに言えば、計算機を使った証明を認めない立場もあります。証明の正しさの根拠は
多くの数学者の同意(多数決?)によらなくてはならないという立場からの反対です。