>>389
この点五味康祐がうまいことを言っている。
★『フルトヴェングラーも言っているが、つねに指揮者は演奏で「現代の音楽」を語っていなければならない。』(五味康祐)
   ティーレマンは現代の音楽を語ってはいない。懐古趣味的ウケ狙いだ。

以下、五味に共感できるので、カラヤン→ティレマン、ベルリン・フィル→ウィーン・フィル 田園→ベートーベンに入れ替え引用。
★『ティーレマンの鳴らすウィーン・フィルは畢竟、アルチザンの音である。たしかに巧いが、大見得を切る臭味が澱のようにこちらの胸に残って困った。
ベートーヴェンの演奏が大見得を切っては困るのだ。
フルトヴェングラーは、芸術の領域には、ワグナーが単に《エフェクト》と呼んだ、外部から聴衆におよぼす効果があり、
これは一瞬だけ聴衆を陶然とさせるにすぎぬもので、精神的な《共同体》を作り出さない。
そういうエフェクトを、簡潔に《原因のない効果》ともワグナーは定義しているが、凡庸な音楽家はこの《原因のない効果》を追いすぎると、ヴァルター・アーベントロート(Walter Abendroth)との対話で言っている。
ティーレマンのベートーベンは、巧くはあるがそんな《エフェクト》を追うに終始したのである。』
  http://www.audiosharing.com/people/gomi/tenno_koe/ten_14_1.htm

ティーレマンはアルチザン(非芸術的音楽職人)であり、彼の音楽表情の変化(アゴーギグやルバート、ルフトパウゼなど)には
音楽的芸術的必然性<<原因>>がない。
そういう意味では純なトラディショナリストでもないのである。

また、ゲヴァントハウスのコンヴィチュニーのような細部まで彫琢仕上げのガッシリした大伽藍でもない。
彫琢はかなり甘い。

 ゆえに、冒頭結論となる。

                  以上