ティーレマンは、ベルリンフィルのようなコンサート指揮者よりも、泥臭いオペラ職人に相応しい指揮者だろう。

>>389
現在、見切りをつけてCDも手放したので具体的な箇所の指摘は出来ない。

背負った時代がまったく異なるとはいえ、たとえば、出来ればクレンペラーのと聞き比べて欲しい。
また、たとえば、フルトヴェングラーの戦後復帰初のベートーベン(エグモント序曲、第5番)と聞き比べて欲しい。

音楽は楽譜を通した作曲家との対話、議論、ときには格闘技であり、その<追体験を通した再創造>(フルトヴェングラー)である。
Muss es sein?(かくあらねばならぬか?) Es muss sein!(かくあらねばならぬ) これがベートーベンだ。

しかしティーレマンには、ベートーベンとのある種切羽詰った<追体験>も、確信を持った<再創造>も感じられない。
これはベートーベンに客観的人倫精神(ヘーゲル)を観るドイツ-オーストリア音楽としては根本的な問題ではないか?
これは聞き手の主観の問題ではない。
これは、かなりロマンティックすぎる聴き方だろうか?

これは推測だが、コンサートマスターのライナー・キュッヒルの趣向がかなり入っていると思われる。