故人になった日本人指揮者のF氏が、こんなことを生前に書き残した。

・ブラームスの交響曲第1番について
 「ベートーヴェンのパロディであり、ほかのあらゆる“工夫”はそのパロディ性をおおい隠すための道具立てでしかないかもしれない。」
 「しかし“努力の産物”“音楽労働者の汗の結晶”としても、この第一交響曲は良く出来た音楽であるというべきだろう。」

・ブラームスの才能について
 「チャイコフスキーなどはブラームスの作品は、他人のオリジナル民謡からのヒントをもとに頭脳作業だけで無理にでっちあげたものとして、軽蔑していたというし、そう言われても仕方がない面もある。」
 「とにかく、交響曲から歌曲の小品にいたるまで、ブラームスの作品に、天才のひらめきを発見することは、ひどく困難な作業だ。」
 「今でも、チャイコフスキーを二流の音楽家と言うなら、ブラームスだって二流か、それ以下だと思う。」

 要するに、F氏は「重度のブラームス不感症に罹っていた」というか、「ブラームスの音楽を解する天賦の才能を欠いていた」のであって、こんな人物がよくもまあ、プロの指揮者として通用していたものだ。
 こういうのは日本楽壇の恥だ。

 しかし、「ブラームス不感症」がいた、ということは、「ベートーヴェン不感症」「ベートーヴェンの音楽を解する天賦の才能を欠いた人」もいる、ということは当然あるはずだ。
 ある作曲家の音楽を理解できないときには、鑑賞者はその作曲家やその作曲家の愛好者を罵倒するのでなく、まず自分自身の音楽感受の才能を自分自身の吟味の法廷に召喚すべきだ。
 そこのところが分かっていないで、駄本を書いたりネットでわめき散らす奴が多すぎる。

 ちなみに俺は、シェーンベルク以降の「無調音楽」を全く受け付けない。しかしシェーンベルク、ウェーベルン等々やその愛好者をを非難する気は全くない。
 現にあれを楽しんでいる人たちはそこそこいるわけだし、自分には無調を理解する才能が無いのかも知れないが、それならそれでいいじゃないか、自分はベートーヴェンやブラームスを聞いていよう、と思っている。