「先生、バナナはおやつに入りますか」
今まで我々は何度、この台詞を聞いてきたのだろうか。そして死ぬまでに何度聞く羽目になるのだろうか。
 なにがしかのギャグで使われるときにも「聞き飽きた」のフレーズともに描かれるこの台詞。既にキング・オブ・聞き飽きたと呼ばれるにふさわしいフレーズではあるが、今日はこのことについて考えてみたい。
 そもそも、この台詞は小学生が遠足のときにおやつの上限額の制約をすり抜けるために考え出されたささやかな抵抗である。
すなわち、「バナナはおやつではないのでおやつの額には加算されない。よってより多くのおやつ的なものを楽しむことができる」という戦術だ。
これは教師から見た「おやつの概念」が金を出して購入する既製の嗜好品であるのに対し、子供から見たおやつの概念は単純な嗜好品であり、微妙にその範囲が異なる。この教師と子供の概念の不一致を逆手に取った、巧妙な戦術にも思える。
 だが、巧妙に見えても子供は子供。決定権を教師側に預けると言う愚をおかしてしまっている。つまり、教師が「バナナはおやつです。バナナの金額もおやつに加算するように」と言えばこの論争は終了してしまう。
 挙手をした小学生にわずかでも老獪さがあるのなら、こんなものは遠足当日、バナナを持ってきた上で「私はバナナはおやつではなく通常の食糧と判断したので持って来ました。何か御反論は?」と言い放てばいいだけの話である。
 そこで教師が「それはおやつには入る」と主張したのなら、「なるほど。では先生のおっしゃるおやつの定義を明確にして下さい」と要求し、ここで初めて双方のおやつの概念の相違を議論の俎上に載せるのである。
 ここで相手(教師)がどのような概念を主張しようが、こちら側のおやつの概念との相違を事細かに指摘し、「価値観の相違」の泥沼的決着に落とし込む。
 この技術を応用すれば、ポッキーやせんべい、マシュマロやチョコレートいかなるものでも「おやつではない」と主張することができる。それどころか、遠足に行かないことすら可能だ。
遠足の目的地で口角泡を飛ばして、認識論やら記号論を繰り広げる教師と小学生。それが21世紀的教育の風景である。