信者の皆様、教義を、しんじる前に、考えてください。
その教団は自らに不都合な情報は徹底的に隠す一方、どこかの国での布教のためには、信者の情報を売り渡すオープンな教祖とその仲間達の集団である、といううわさは嘘でしょうか。
その彼らが過去につくった言語は皆に愛され、今も生きていますか?
その彼らが自身がつくった自らの言葉、広めた言語を簡単に捨てていっているはずがないと?
その彼らがつくりだす教義、言語を使っていくというのでしょうか?

その当時より古い言語でも、愛されている言語は、今でも存在しています。
そして、これからも存在するでしょう。皆に愛される言語は簡単にはなくなりません。

彼らのいってることは、たしかにみなの気を引く、すばらしい事が満載されています。
しかし新しい言語を覚えて使っていく意味を、われわれは、この機会に考えたほうがいいと思うんです。

あそこにいようとする人達は、自らのもちものや、自らのアイデンティティを愛していない、自ら生きていくためには他人のものがほしくてたまらない、他人の大量のお金がほしくてたまらない、そうおもっているように見えてしかたありません。
愛着がなければ、集団や組織が崩れ去ってゆくのは、速いものです。
ウエブアプリや、Javaがひろまってくる頃に、どうなるでしょうか。
旗色が悪くなると見るや、自らのものを捨てていく、よそのものを買収する、そういう歴史を繰り返していけるのでしょうか。

言語、データベース、そして、OS。
彼らは何にも愛着がないように見えます。それがよかったという人もいます。

最近、よくみると、選択肢がいくつか増えてきました。
さすがの彼らも買収しきれなくなってきた感じがありますし、そもそもオープンなものを買収することは意味がないのかもしれません。
私はあと20年くらいしかプログラムできませんが、これを機会に、ずっとプログラムが続けることができる、そういう言語を選ぼうと思います。