<山谷少佐の職業倫理観>

私たちは普通「救世軍牧師」といったとき、どのような人物像を想像するでしょう。
「社会鍋」に象徴されるように救世軍は、イエス・キリストの福音を宣べ伝え、
主のみ名において分け隔てなく全ての人々の需要にこたえることを使命とする、
私たちクリスチャンが誇りに思うべき戦う聖徒の教団です。彼らは口にする言葉を通して、
疲れた者、重荷を背負っている者を癒し、弱く悩み多き者には自ら先に歩み寄り、
信仰と愛と希望を惜しみなく与える。彼らは御霊にあふれた伝道者の模範でしょう。

たとえば、ノンクリスチャンの親がキリスト教を信じるようになった我が子のことで、
ある救世軍の牧師に相談をしたとします。その牧師は、親と子双方の意見を十分に聞いたうえで、
親子の間に立ち、和解のために尽力するはずです。

そうであれば、今回山谷氏が私の両親から相談を受けた際に私と両親の間に立って、
円満な解決のために尽力することは当然のことではないでしょうか。

これは、山谷氏にとって到底応えることのできない要求だったのでしょうか?

そんなはずはないでしょう。なぜなら山谷氏は「救世軍牧師」として殉難しておられるのだから。

しかし山谷氏は、私の両親の相談を聞くやいなや、私の話しを聞こうともせず、
両親に私の教会に対する憎悪を勝手に植え付けました。
まるで自分が正義の味方であるかのように振る舞い、私と両親との溝が深くなるように仕向けたのです。
この件で山谷氏は反論されるでしょうか。いや、反論できるはずありません。
現に私の両親はもう私の話などまったく信じようとしないのですから。
「私が『マインドコントロール』されている」とでも私の両親に刷り込んだのでしょう。
これが「救世軍牧師」のすることなのかと疑わざるを得ません。
今、私が信仰をはっきりと告白した以上、山谷氏は1人の牧師として、
それを聞き入れずに一方的かつ抑圧的な態度で「あなたは異端だ」などと主張することはできないのです。