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「宮台」を哲学すると?

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0001考える名無しさん NGNG
最近の宮台真司の著書を読んでいると、

「意味」から「強度」へ
→近代市民社会的共生原理
→「表出の根」(共通感覚)に基づく選択共同体+エリート主義

と、振幅の激しさもさることながら、何か凄くヤバい方向に向かっている気がする。

宮台が単におチャラケていると考えるには、近影がイタすぎる気がする。

「大きな物語の終焉」という数少ないポストモダンの共通了解事項
から出発して、この息苦しい展開はどういう意味を持つのか?
ソーカル的な外からの批判とは別に、ポストモダンに対する根源的内在的批判を体現しているのか?
あるいはポストモダンなるものにあらかじめ予定されていた道行きなのか?

どうすか? 社会学板に逝ってよし!なんて言わずに。
(あっちはひどすぎるんだもん)
0002考える名無しさん NGNG
確実に言えるのは、宮台は哲学をしている、ということだ。
社会学という狭い枠には入りきらないと思う。
宮台にとっての次のステージは悟りをひらくことだと思う(マジ)。
個人的には、ポストモダンというよりも、考える人間にとって
予定される道のりだと思う。
0003考える名無しさん NGNG
>>2

哲学ねー、、、だからダメなんだな。>宮台
00041 NGNG
というか、どうしても意識が社会的「統合」に向かってしまうのは、
社会学屋さん的な制約(良心というべきか)なのでは?

0005名無しさん@そうだ選挙にいこう NGNG
東大だから、みたいに揶揄されるけどねえ。
00061 NGNG
なるほどね。
最近言い始めた、エリートうんぬんも、そういうことなのかな。
なんか、悲しくなってきたっす。

懲りずに、違う方から気になる点を。
宮台の「共通感覚」って中村雄二郎が下敷きなのかな?
彼も「生命」とか強調し始めてから、生理的(!)に受け付けなくなってきた。
(そういえば、中村スレって立ってないね)

 それはさておき結局、「意味」の向こう側に「強度」(直接性)
をおいた段階から、身体的な一体性(表出の根の共有)という方向に
向かわざるを得なかったのだろうか。
 学がないので、言葉でうまく説明できないのだけど、この展開への
違和感・嫌悪感というのは特殊なものなのかな。
(「意味」という考え方が失効していること自体は実感しているだけに
 一層タチが悪い)
0007考える名無しさん NGNG
強度ってつまり好き嫌いのことだろ。
意味とは煎じ詰めれば恣意だから失効する、とするなら、
いったい強度と意味に差なんてあるのか。
てゆうか共同体主義と共生原理に、
ことさら取り上げるほどの差があるのか。
てゆうか宮台と小林よしりんにそんな差があるのか。
駄文愚問失礼。
0008考える名無しさん NGNG
でも昔よりはよくなった気がする。
昔はひどかった。
0009>7 NGNG
ミヤダイと小林を並べるのは同意です。
っていうか頭で考えなきゃならないことを
体の側面に持っていこうとする気持ち悪さが
あるんだよね。それと、僕(ら)の
身体感覚への不信感がちょうど呼応していると思ふ
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