唯物論について
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0001プレハ−ノフ
NGNGこの本ではレ−ニンの「唯物論と経験批判論」がクソミソにけなされています。
我々の意識とは独立に自然が存在する、という健全な主張を自称哲学者の多くはバカにしますが、
では人間が生まれる前には世界は存在しなかったのですか?
0002>1
NGNGなことを言うんだよ。人間の意識とは独立な世界があるが、人間
には、それをフィルタのかかった認識を通してしか議論できない
んだということにすぎないのにね。
実質的には、どちらの見方も峻別不能なように思えるが、しかし、
人間の認識の仕方は、現実に、我々の世界観がこの数世紀で大き
く変わったように、時代と共に変化しうるわけだ。しかし、過去
の世界が現代の世界とは別物であったかというと、そうではない
わけだからね。やはり、世界は認識とは独立に存在するのだよ。
0003代理いぬ
NGNGおお、その通り。
私もそう思うよ。
0004ボグダ−ノフ >all
NGNGこれはドグマです。我々に与えられているのは意識だけなのに、
どうやって意識の外にある世界の存在を証明できるのか。
0005ルナチャルスキー
NGNGおお、その通り。
私もそう思うよ。
00062
NGNG原理的に証明できないからといって、意味がないわけでは
ないよ。逆に、意識に従属して世界が「変わる」という反証
なら原理的に示すことは可能だが、実際その反証が出ないか
ぎりにおいては、俺は唯物論を信じるよ。それで、何の不都
合もないからね。(っていうか、好都合だから。)
神は存在しないという命題も、神の存在を示す反証が出る
までは、信じるしね。同じことだよ。
それとも、君は、「神の非存在」は証明できないから、神
は存在すると「信じる」のかね?(藁
00072
NGNG聞き飽きたよ、その言葉。>4
に訂正だ。
0008河合栄治郎
NGNG唯物論者は証明不可能なことがらを信仰している。これは独断論に外ならず、哲学ではなく宗教である。
神の存在、世界の存在、これらは我々の経験を超越しており、肯定も否定もできない。
我々はただ「我々は世界が存在すると意識している」ということのみを知り得るに過ぎない。
0009考える名無しさん
NGNGおもんないのでさげ。
0010>9
NGNG00119
NGNG0012ネオ生茶
NGNG世界が人間の意識を離れて存在するというのは健全ではあるが素朴な考えといえるでしょう。
2は世界=認識の意味を誤解されているようです。
世界=認識だと考える人ならば、「世界を認識する際に色眼鏡を使用している」などとは
決して言わないでしょう。なぜなら世界=認識とは、この我々が見るものの背後に真の世界など
を捜し求めることはできないという主張だからです。従ってあなたがこの事を理解するならば、
議論の焦点は「何故我々の認識の背後の世界を想定する必要があるのか?」を問題にすべきです。
>4、5
あなたがたも全く同じ誤解をしています。世界の存在証明云々を言っている辺りからわかります。
4は意識の外の世界をどうやって証明できるかといいますが、その必要はないといいたい。
我々が意識の外に出ることができないというのはいわば言っても言わなくても良いこと、
即ち認識という能力の定義にかかわる命題です。つまり当たり前のこと。では、そのことを自覚的に
捉えるとこの世界はどのように見えるのか?その様な方向で考えていくと面白いのでは?
0013>9
NGNG4や8は世界の存在を否定していない。
存在するかしないかは知りえない、と主張してるのだから。
0014>12
NGNGネオ生茶さん、現代科学は宇宙は人間よりもはるかに前から存在すること
を明らかにしています。今から3億年前には恐竜の意識が世界を構成していた
とでも言うのですか?
0015丸山真男
NGNG0016ルカーチ(初期)
NGNGエンゲルスの誤謬がロシア・マルクス主義に受け継がれたのだ。
0017ネオ生茶
NGNG私が言いたいのは、そうした宇宙を想像するのは私でしかないということです。
どんなにそうした宇宙がありありと浮かんだとしても、それを見ているのは私でしょう。
もちろんこうした当たり前の事を言うのは気が進みませんが。
このようにいえばよいでしょうか。
普通この手の議論では主観・客観のとらえかたが問題になることが多いように思えます。
人間は主観的な世界像しか得ることは出来ないというのは、おそらく誰もが一応賛同できるのでは
ないでしょうか。しかし主観的な世界像しか得られないならば、主観・客観という区別は
本来無意味なはずです。それが有意味に見えるのは、何らかの仕方で客観的な世界に
到達できるという錯覚があるからに他ならない。例えば科学とかですね。
現代科学について言うならば、現代科学は一つの思考様式でしかないと言えます。
科学的な味方をすれば一見世界と意識は分離できるように見える。しかし科学のやっていることを
観察するならば、科学的な法則・世界観を投射しているに過ぎない。つまり、科学の実践の場では
既に主観・客観の区別は無化されている。
001814>17
NGNG「恐竜が人類の誕生以前に地上にいた」ことも一つの思考様式に過ぎない
のでしょうか。我々の思考は確かに主観的なものですが、
客観を正しく捉えているかどうか、という基準によって優劣が付けられると
思うのですが。ネオ生茶さんは、過去の存在を認めないのでしょうか。
0019ネオ生茶
NGNG14の言う宇宙とは、宇宙像のことであるというふうに解釈して下さい。
このような当たり前のことを言うのはあほらしいから、後半で科学について
ごく簡単に述べたわけです。
0020>19
NGNGと言うけど、
18の化石の問題はどうなるの?
0021ネオ生茶
NGNG過去の存在を認める事と、この世界が主観的なものでしかないというのは別のことではないでしょうか。
もちろん過去があったと思っています。
私は、認識とはある思考形式を使用することだと考えています。こうしたことは無意識に行われるのであり、
従って認識が意識的に行われるかどうかは、認識という行為の本質的な過程ではない。
我々が採り得る思考形式は可能的には無限に存在します。傷が浅い時には血を見てその赤さに驚くかもしれない。
しかし、別の場合には流血は命を脅かす指標にもなり得る。
この際に同じ血を見て別々の判断を下したのだというならば、それは主観・客観を区別した言い方だと
言えるかもしれない。というのは、認識以前に存在するものを見てそれについて判断を下したように見えるから。
しかし同じ血という言い方から、主観以前の何かを抽出し得たというのは浅はかです。なぜなら
同じ血という言い方そのものが、我々の思考形式の一つにすぎないのですから。
あなたは客観を正しく捉えると言いますが、それがどのようなことか説明できるのでしょうか。
思うに客観という言葉は特定の思考形式の中でしか機能できない言葉に思えるのですが。
ところでなぜ認識について述べたかといえば、我々の思考形式が互いに相容れないものである時
にこうした哲学的な問題が発生するからです。こうした事態を整理してやれば、問題は解消されるでしょう。
0022厨房
NGNGだから恐竜の化石は?
恐竜がいたころ、人間の「主観」はまだ現れていなかったでしょ?
002314>21
NGNG明らかに矛盾します。十億年前の地球には人間の主観など存在していなかったの
だから。
それとも貴方は人類が誕生した時点までは過去の存在を認め、それ以前の過去は
みとめないの?
0024考える名無しさん
NGNG恐竜の例は見当違いの質問だと思うよ。
例が何を考えて出されたかよく分からんけど、とりあえず三種の返答
1過去に恐竜が生きていた世界が実際に存在してたかどうかは分からない。
これは科学でもそうだよね。
2現在において、何か分からない化石たるものが存在するけど
それは我々がそう知覚するのみでしょ
3現在において我々が理解不能なものの存在が知覚できるが、
世界が我々の意識と連動されるなら、
我々の知覚限界を超えると想起される現象が起こりうるのはなぜか?
・・・こんな感じの質問だったのかな?
002514>24
NGNGはじめから本音を言ってくれればいいのに。
この論法でいけばすべての事柄は私の妄想に過ぎないという結論を導ける。
つまり独我論です。これは論破できない。
002614>24
NGNG自分がそう知覚しているだけで、実際に存在するかどうかは分からない
と主張することになりますよ。
002724
NGNG我々が知覚するのみ→我々の知覚を抜かして考慮できない。
0028考える名無しさん
NGNG知覚するかぎりにおいてパソコンは存在するのでは。
002924
NGNG3の答えが議論が一番発展しそうな話題なんだからそこを攻めろよ。
003024
NGNG23→25ね
疲労が!・・・
0031考える名無しさん
NGNG>この本ではレ−ニンの「唯物論と経験批判論」がクソミソにけなされています。
どういう風にけなされているのですか。
00322
NGNGただ、一ひねりあるんだけどね。
つまり「神は存在する」=「認識と独立な世界は存在しない」
「神は存在しない」=「認識と独立な世界は存在する」
っていうことだ。前者は証明可能だが、後者は証明不能。
積極的に前者を信じる者は、それを証明する必要があろう。
もちろん、不可知論的立場に立つのなら、それが最強。だけど、馬鹿。
まあ、宗教論争だと言えばその通りだが、「無神論者」も宗教かと
言われれば違うんじゃないの、としかいいようがないな。
「認識と独立な世界はない」という信念から、いったい何が生まれるのだ?
反証できないことは重々承知しつつも、あえて否定するほうがよほど利口
だよ。「神の非存在は証明できない」などと、意味のない命題を唱えるば
かりで、神を信じるわけでも、否定するわけでもないどっちつかずの馬鹿
にはなりたくないね。
003314>24
NGNG24での三番目の答えについてもう少し分かりやすく説明していただけませんか。
003414>24
NGNG実は太平洋戦争というものは無かったのだ。だって私はこの戦争を経験
していないのだから。本当にあったかどうか証明できない。
と言う人についてどう思いますか。直接体験することができなくても、
証拠を積み重ねていくことで我々は過去の事実に近づけると考えてはいけませんか。
さらに言えば、耳が聞こえないひとが
「世界には音なるものは存在しない。私はそんなものは体験していない。
人々が私を騙そうとしているのだ」
と述べたとき、このひとは誤っていると考えてはいけませんか?
003524
NGNG「無い」ではないわけです。
太平洋戦争を人間としての観察を超えて捉える態度が観察者(科学者)として不適切とは言えると思います。
また上の耳が不自由な例をとって
「我々は霊を知る感覚を持ってないが霊の存在はあるんだ!」という人が現れたら何と答えるのですか?
我々に与えられた情報は全て自分の感覚を通して入ってきたものなのですから
考察する対象にするものも同じものであるべきだとは思いませんか?
00362
NGNG「世界を認識と独立に議論することはできない」という命題なら
その通りだと認めるけどね。でも、そんな自明のことを論じてる
んじゃないよね。(藁
003724
NGNG科学者たる者、観察者としての視点は主観的でなければならんとちゃうの?
ニュートンみたく神の視点を追求してもそれは観察者としては極めて愚かな行為だと思うよ。
要はアメンボのいるバケツは中央がへこみ周囲が盛り上がるってやつ。
00382
NGNGそれって、俺が、36で認めてる命題と同じだよ。
当たり前の話。
0039考える名無しさん
NGNG我々は音が空気の振動であり、どういうメカニズムで人が音を感じるか
を知っている。
そしてどのような身体的欠陥がある時に人の聴覚は失われるのか知っている。
だから我々は耳が聞こえないひとに対して「音が存在する」と言える。
逆に言うと、このような論証ができないから、我々は幽霊は存在しないだろうと
考える。
0040名無しさん@1周年
NGNGどこに求めるかが問題です。私の意識や知覚
が私の認識する世界だとするなら、25の言う
ように独我論になってしまうでしょう。
デカルトは意識や知覚の自明性を信じられず、
最終的に「考える私」が私の意識の自明性の
根拠だとしましたが、考える私を意識するた
めにはまた別の、「考える私」を考える私、
が必要となり、メタな意識が立て続けに表れ
てくるので、どの段階が私の認識する真の世界
なのかがわからなくなります。
それらはすべて私だ、と言い切れる人は、
それでいいと思いますけど・・・
004124
NGNGすまん、では本題は何なの?
14の質問はもっと深いとこをついてるの?
00422
NGNGさあ、何だろうね。人間は騙されやすい機械だってことかな。唯物論的に言えば。(藁
0043電波猫<36
NGNG00442
NGNG最終的には、他人と共有できるかどうかどうかだろうね。
直接、間接的な認識から世界のモデルを構築していくしかない
わけだが、モデル=世界ではない。あくまでも、認識という
フィルタを通して見た世界の一断面にすぎない。しかし、その
モデルが他人と共有できる、あるいは、自作の過去のモデルと
整合的(仮に同じではなくてもね)であれば、やはり、そこに
客観的な「世界」が実在することは疑えないだろう。
世界と認識が不可分であり、客観的な外界の実在に拘る必要
などないという思弁も確かに成立しうるが、それでは、「世
界を知ろう」という強い欲求は生まれないだろう。だって、
私の「世界」が誰とも共有できないかもしれないんだからね。
そのうえ、幽霊を信じる電波な人と同じ穴のムジナになって
しまいかねないわけだし。そういう電波系の思想が大手を振っ
て歩くようになったら世も末だと思うよ。
0045電波猫
NGNG00462
NGNGそうだよ。したがって、世界を記述しようとする努力自体ナンセンス
ということになるわけで、議論も学問も意味を失うだけだよね。
電波が跳梁跋扈する所以だ。
0047代理いぬ
NGNG>世界が人間の意識を離れて存在するというのは健全ではあるが素朴な考えといえるでしょう。
>……
>従ってあなたがこの事を理解するならば、議論の焦点は
>「何故我々の認識の背後の世界を想定する必要があるのか?」を問題にすべきです。
私は、「認識論的な議論と実在論的な信念は両立する」と考えている。
なぜなら、認識論的議論においても、
我々が世界に対して能動的に影響できるにも関わらず、
認識それ自体は(相変わらず)全く受動的であることから、
認識の背後には独立した原因(すなわち外界)があると考えるのは、
ごく自然なことだと思われるからだ。
どうしてそれが「素朴だ」などと言われなければならないのか?
ご意見御拝聴。
>17
>つまり、科学の実践の場では既に主観・客観の区別は無化されている。
科学者は客観的であろうと努めるだろうし、
「我々の仕事は客観的である」と言うだろう。
科学の場面での客観性は、認識論的な議論とは別のものだ。
ましてや、現在のまともな科学者たちのほとんどは、
"何らかの仕方で客観的な世界に到達できるという錯覚"(>>17)
など持ってやいまいよ。
>21
>ところでなぜ認識について述べたかといえば、
>我々の思考形式が互いに相容れないものである時にこうした哲学的な問題が発生するからです。
>こうした事態を整理してやれば、問題は解消されるでしょう。
それを体現したのが科学ではないだろうか?
科学的学問一般が成功するもっとも大きな理由とは、
資産を共有することによる方法の統一であろうと思うのだが。
あらゆる学問の科学としての分科には、
まさに君の述べた問題解決の仕方が常にあったと思うのだが、いかが?
0048考える名無しさん
NGNG0049考える名無しさん
NGNG0050考える名無しさん
NGNG>この本ではレ−ニンの「唯物論と経験批判論」がクソミソにけなされています。
どう言われているのか簡単に教えて下さい。(自分で読めって?)
0051考える名無しさん
NGNG0052考える名無しさん
NGNG0053考える名無しさん
NGNG0054考える名無しさん
NGNG外的対象の客観性と知覚作用の主観性との折り合いという
カント的な知覚問題なのか?んなもん飽き飽きっちゅ〜ねん!!
マルクス主義的な文脈で語ってくれ!!
0055考える名無しさん
NGNG唯物論というのはこの線で行くと、全てを主観化するのでも実在化するのでもなく、
存在しているもの=意識されたものという擦り合わせを行いながら
存在しているものを人間のプラグマティックな営為に合わせて解釈していくことなのかなぁ・・
0056考える名無しさん
NGNG0057考える名無しさん
NGNG0058考える名無しさん
NGNGそれは矛盾しているから後は勝手に何でも証明してくれといいたくなりますね。
0059考える名無しさん
NGNG0060考える名無しさん
NGNG0061考える名無しさん
NGNG0062考える名無しさん
NGNG逆じゃない?人間のプラグマティックな営為を
存在しているものに合わせて解釈していくこと。
0063考える名無しさん
NGNG思っているのは「意識」や「自我」でしかないわけよ。
それはいつも「社会的」な位相からはみ出してしまう。
また、これは以前にも誰かが述べていたけど、マルク
ス主義自体が下部構造の産物であるということになって
必然的に自身が相対化されてしまう。
以上の理由から唯物論(マルクス主義)は噴飯もの
であることは明らか。
0064考える名無しさん
NGNG0065考える名無しさん
NGNGもちろんイデオロギーである以上いったんは相対化されるのですが、
ディスクールにとどまる以上それはたんなる上部構造の一環にすぎ
ないわけですが、いわゆる反作用、すなわち
変革の実践そのものによって、再び主客が統一されるのです。
すなわち土台のみに「矛盾」が存在するのではなく、究極的にはその反映で
ありながらも、土台と上部構造の間、上部構造内部、にも矛盾が
変化発展の動因として存在し、人間所個人の主体的実践によってのみ
揚棄されるものとして現れてくるのです。
これが「実践的唯物論」という考えで、グラムシに権著に現れています。
日本では戸坂潤の唯物論とくに「批評」という概念がこれに近いもの
だと思います。
戸坂潤「イデオロギーの論理学」とくに「『問題』に関する理論」が
参考になります。(戸坂潤全集第2巻・勁草書房)
0066考える名無しさん
NGNG0067考える名無しさん
NGNG>必然的に自身が相対化されてしまう。
>以上の理由から唯物論(マルクス主義)は噴飯もの
>であることは明らか。
別に問題ないよ。真理条件が循環してるわけではないから。
「自己言及のパラドックス」にはなってないよ。
0068考える名無しさん
NGNG詳説希望
0069考える名無しさん
NGNG>>32
>つまり「神は存在する」=「認識と独立な世界は存在しない」
> 「神は存在しない」=「認識と独立な世界は存在する」
それは逆だろ。つまり、
「神は存在しない」=「認識と独立な世界は存在しない」
「神は存在する」=「認識と独立な世界は存在する」
神の存在を信じる人は、認識主体の外部に独立して神の意志や法則が普遍的にあると信じているんですよ。
0070つまり
NGNG0071考える名無しさん
NGNG「人間所個人の主体的実践」って具体的にはどのようなものですか?
またその実践によって、63のいう唯物論自体の相対化が乗り越えられる
のですか?
0072代理いぬ
NGNG人間社会にも自然科学と同じ唯物的な理論が通用するという立場だろ。
違うかね?
私は、社会学における唯物論の立場は間違っていると思うが、
ここの議論はどうも的外れが続いているような・・・。
0073(^^)/
NGNG>私は、社会学における唯物論の立場は間違っていると思うが
それはどういう理由においてですか?
もう少し解説おねがいします
0074名無しさん@1周年
NGNGはじめっから「世界」語る時点で、切り抜かれたもんで限定的なもの。閉鎖系世界。
んじゃー、あるがままの自然ってあるかっていわれりゃ、あるんでしょうね。
でも唯物論て・・・・・限定哲学ッしょ。所轄にでは全能。あくまで理解の道具ッしょ。
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