「原罪」という観念について (続)
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0001Scotus
NGNGできたら続けて議論してくれませんか?
前スレはこちら ↓
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=philo&key=965146947
なお議論しやすいように、終りのいくつかのカキコを転載
しておきます。
0002名無しさん@1周年
NGNGなぜこの世に悪があるのかといった疑問は
キリスト教で何年も問いつづけられた問題だよね。
流出説のプロティノスとか
あとフィロン?とかが扱ってなかったっけ?
0003名無しさん@1周年
NGNG中世のオーソドックスな考え方では神が造った被造物は
すべて善 bonumなわけで…
とするとイブを誘惑に誘った蛇も限られた観点からすれば
悪ですが救済も含め偉大なる神の摂理 providentiaの視座
からすればその悪を止揚して余りある全体的な善の秩序
のなかに原罪の意義もあるわけです。
原罪がなければキリストによる贖いもない訳で…
そうするとキリスト教の成立もなくなる訳ですからある
意味、楽園追放は壮大なる神のご意志のもとに成立する
一大プロジェクトなのかもしれません。
神のご意志は計りかねるものなのでその本当の目的は
わかりませんが…
0004名無しさん@1周年
NGNGPS;13の続き
神が創造した被造物がすべて善であるとすると、じゃあ悪って
のは何なんだという問いがあってしかるべきですが、悪 malum
というのはなんらかの善の欠如(例えば盲目 caecumという悪
は視力の欠如)と考えられていた訳で、そうすると善か悪かの
二元論ではなく、より多く善かまたはより少なく善かのひとつ
の秩序 ordoの中にすべての被造物は含まれる訳です。
では非被造物たるDeusはどうかというとこれは被造物と存在の
あり方 modus essendiを異にする最高善として考えられ、
このDeusの完全な善を不完全な形で模倣しているのが被造物なのです。
つまり善と存在とは概念ratioを異にするがモノresとしては
同じものであるのです。
しかしこのように論を進めてもやはり責任の所在は自由意志論
というかたちで残るわけですべてがDeusの摂理の元にあるなら
人間には果たして自由意志というものがあるのか?もしすべて
が Deusの予定のもとに進行するならそんなものは実はないん
じゃないかという問題があります。
でもこの立場をとると最後の審判において一体何を元にある
人間を裁くのだという問題になるわけで結局 Deusの予定を
認めながらも個々の人間の自由意志も認めるという
結構危なっかしい綱渡りをしなければいけない訳です。
この問題がルターやカルヴァンによって再び取り上げられる訳で…
(うぅ、でもこれ以上論じると異端審問ゆきだな、こりゃ。)
0005名無しさん@1周年
NGNG恩寵予定説 VS 自由意志論 ?
上の固定ハンのわりに中世哲学には詳しくないので教えてください。
15のカキコを読んでいてひっかかったのは、
>つまり善と存在とは概念ratioを異にするがモノresとして
>は同じものであるのです。
という部分なのですが、この部分の「存在」というのは一般
的な意味での存在とは違うのですか?
つまり完全な善としての神こそ真実在(プラトン的な意味で
?)であり、被造物であるわれわれはその仮象でしかない、
とかそんな意味ですか?
0006名無しさん@1周年
NGNG>18
私は答えて次のようにいうべきでしょう。
まず訂正しなければならないのは私が「存在」と訳した語は
ラテン語の ensという語の翻訳であり、これは厳密には「存
在者」と訳すのが業界の通例です。ごめんなさい。
「存在」という語にあたるラテン語はesseという語でして
これは ensがその現在分詞にあたるのに対し、不定詞の形な
のです。(beingとto beみたいなカンジでしょうか。)
厳密な意味で ensと同じくesseと善 bonumも等しいかどうか
は議論あるところだと思いますが、ここではThomas Aquinas
の議論に対応させましょう。
閑話休題、さてご質問のことについてですがここでの「存在
者」という語は一般的な存在物と考えてなんらさしつかえありません。
「存在する」という意味でのこの存在者にはDeusすら含まれます。
(なんてったって彼御自身が「私はありてあるものである」
なんていってるんですから。)
ところでアリストテレス的には善の定義は「すべてのものが
求めるところのもの」ですから我々が全くの無nihilを求める
ことなんてありえない。(そもそも我々の知性・感覚でDeus
が創造を始められる前の無nihilなんて皆目捉えられない。)
だから「善=すべてのものが求めるもの」である以上善は
なんらかの意味で存在者でなければいけない訳です。
だから存在者と善とはrealな次元(例えばこの机とか、この
本とか)で全く同じものを指し、ただそれが善という語で
表された時、概念に「すべてのものが求めるもの」という
ことが付け加えられるのです。
それゆえ遍く存在者はなんらかの意味で善であり、この思想
の背景にはやはり Deusが善であり(これはプラトン的要素
も含まれる)またその方が創造したものは必ず善でなけれ
ばならないという考え方があるのでしょう。
詳しくは『神学大全』第5問あたりを見ていただければ…
でもそこではアリストテレスの現実態 actusと可能態 potentia
を使った説明になっています。
「すべてのもの」という個所に非魂的な被造物も含ませて
いるからでしょう。
でもこの説明でいくとそもそもこの二つの概念の説明もしな
くてはいけなくなるのでしんどい。すみません。
0007名無しさん@1周年
NGNG>23
レスが遅れてすみません。見事ですね。いや文句なしに素晴らしい。
やはり持つべき友はヲタク友達・・・? というのは嘘。
他の人には興味を持たれないかもしれないけど。
18の問いに答えてくださってありがとうございます。
結局、神と人間との差異は esse と ens の差というよりも、
創造者/被創造物という差異が際立ってくるのでしょうか?
また ens と esse は
ens → being
esse → to be
という感じで理解すればいいですかね?
ところで僕はいま、プロティノス(「善一なるもの」)→
アウグスティヌス → 中世スコラ哲学(トマス・アクィナス、
ドゥンス・スコトゥス)という線で「存在の一義性」につい
て考えてみようかと思っています。(とりわけスコトゥスは
この問題に関しては重要)その場合、やはり「善」の定義が
問題になってきます。例えばグノーシスの一派であったマニ
教やイラン系のゾロアスター教でははっきりとした善悪二元
論をとっている。一方、アウグスティヌスは悪を「善の欠如」
と定義して、悪の自立した「実在性」を認めていない。
一方、プロティノスはアリストテレスの区別に従って、世界
創造の「形相」ではなく「質料」に悪の起源があったとして、
巧妙に二元論を避けている。
トマスの哲学も、むしろこのプロティノスの立場に近いと
言えるのでしょうか?
0008名無しさん@1周年
NGNGあと、トマスの哲学で分からないのは「恩寵論」と、先に
挙がっている ens と esse の関係なのですが?
神もまた ens である、ということは分かったのですが、
すると esse は ens に対してどういう関係を持つのか・・・?
例えばトマスの重要なテーゼである
essentia est per quam et in qua ens habet esse
という命題を例にして解説してくれませんか?(とりわけ
ens が esse を「所有する」、という言い回しがよく分から
ないのですが。)
0009名無しさん@1周年
NGNG私は答えて以下のように言うべきでしょう。
まずトマスの立場においては第一質料は、ただ可能態
においてのみ存在者であるように、また可能態において
善であるといわれるでしょう。
しかしプラトン派(新プラトン派のプロティノスも含まれる
でしょう)の説によると第一質料はそれに付加される欠如性
のゆえに非存在者(=欠如=悪)であるともいわれるでしょう。
(アリストテレス−トマス路線では可能態=質料も存在者なのです。)
しかしそれにしても善への秩序ないし適合性という幾分かの善は分有しているのです。
というのも第一質料は善を欲求しますが、何物も自分に似たものを欲求するからです。
しかしトマスはプロティノスのような一者からの流出(つまり
Deusと被造物の間に存在者という ordoが成立する)を考えず、
あくまでDeusと被造物の間には無限の隔たりがあり、Deusの
存在と被造物との存在との間にはアナロギア的関係しかないと
いうでしょう。
第二に essentia は esseという動詞に由来する抽象名詞で
あり、「あるもの」の「ある性」を示しています。
またそれはいまだあらず、あることへの可能性を示しています。
これにたいして動詞としての esseはこの可能性を現実にある
ものとしている、そのものの「ある」の現実態 actus essendi
を意味します。
ところで我々はすべて「あらしめられてあるもの」であり
Deusは我々を「あらしめているもの」です。
あらしめられてあるものとは、Deusから esseを受けて存在するものです。
我々は Deusから全存在を accipereしてそれを Deusに
よって habereさせてもらっている限り存在者 ensであるの
です。(無からの創造)
それゆえ、各事物の有する全存在は、まったくDeusのあらし
めんとする意思に依存していてもし恩寵ということを
広い意味にとるなら、万物がまさにそのようにあること自体
が、Deusの恩寵にほかならないのです。
0010名無しさん@1周年
NGNG仏教の「業」と比較したらおもしろいかも。
0011名無しさん@1周年
NGNGまたまたレスが遅れてすみません。
私の方は夏休みが過ぎてもこの件に関連した事を考えざるを
得ないので気長にどうぞ。
私としては純粋に中世哲学に興味があるわけで・・・
別にトマス・アクィナスでなくても良いのですが、スコラ哲
学の物の見方を知りたい、と思っているわけです。
ただ、26のカキコにはいくぶんしっくりこない点もあるわけで・・・
というのも26は24、25の問いに十全にはお答えになっていな
いのではないかと思われるからです・・・
そこで以下、私の疑問をいくつか箇条書きさせてもらいます。
�@)トマスの立場において第一質料が、(たとえ「ただ可能
態においてのみ」といえども)存在者であり、よって善であ
るとしても、するとトマスの世界観においては「悪」はどの
時点でこの世に参入するのでしょうか? やはりトマスも
アウグスティヌスと同様に悪を善の相対的欠如性として捉え
ているのでしょうか?
�A)トマスの、「『本質』はそれによって、またその内で
『存在者』が『存在』を所有する、まさに当のものである」
という命題における『本質』essentia というのは、単に
動詞 esse の可能態をあらわす抽象名詞と考えていいので
しょうか? この essenntia という言葉のもつ神学的な
内実は如何なるものでしょう?
0012Thomas
NGNGi)に関してですがトマスも基本的にアウグスティヌスの悪論を継承していると考えて
差し支えないと思われます。トマスにおいてのみならず「存在するものは、存在する限り
善である」という命題はキリスト教の根本命題であるように思われます。神の良き意志に
よって創造されたこの世界の中に、悪しきものはありえないわけで…
トマスによれば「悪」なる「もの」は存在しないわけで、あくまでそれは善の欠如privatio
なのです。すなわちあるべき善がかけていることであり、存在者と善の置換関係から悪は「存在
の欠如」ということになります。現実に存在しているものが、それぞれの存在の様態に応じて「あるべきあり方」
を欠如している限りにおいて悪が認められるのです。例えば盲目というのは視力の欠如によって悪といわれるように。
ゆえに人間においても人間が本来あるべきあり方からそれたときに「悪」であるといわれ、罪と罰がいわれることに
なるでしょう。しかし例えばある人が人を殺したとして、それは明らかに悪でしょうが、その当人は少なくともその人を
殺すことが良いと思ったからその人を殺したわけでその点では消極的な意味での善をなしたわけです。さらにもっと巨視
的な視点でみると、被造物はなんらかの秩序ordoの中にあるわけで、善という秩序において、より劣ったものがあるからこそ
より良き者があるわけですべてのものがどんぐりの背比べのような完全性だるとすると、そこに秩序というより良き状態が成り立たなく
なってしまうわけです。
�A)に関してはessentiaというのはesseの可能態と考えて言いわけでそこから「本質」という訳もでてくるわけです。
基本的には「哲学」の言葉termであり神学とは直接関係ありませんが「哲学」を神学に秩序づけようとしたトマスの
立場を如実に表していると思います。現代でいうならば最新の科学理論で神について語ったという感じでしょうか。
0013考える名無しさん
NGNG0014考える名無しさん
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