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「原罪」という観念について

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0001名無しさん@1周年NGNG
教えてください。
キリスト教徒ではない日本人でも理解できますか?
また何故キリスト教は、このような観念を作り出したのでしょうか?
0002名無しさん@1周年NGNG
信者獲得のため。

ちなみにつくり出したのはキリストや使途たちではなく、
ユダヤ教やそれ以前の信仰にもある概念です。
0003名無しさん@1周年NGNG
ああ、そうそう、そうでしたね。

ところで原罪 = 旧約聖書にあるエデン追放のエピソード
と考えていいんですかね? それとももっと漠然とした罪の
観念ですか?

>2
>それ以前の信仰
っていうのは、具体的には何ですか? すいません、知りたいもので。
0004名無しさん@1周年NGNG
キリスト教で人間は自由な生き物として創られた。
そしてその自由には「神を裏切る自由」もあった。
そんでもって神を裏切って何かを食っちゃった人間は
原罪を背負うことになったらしい。
で、原罪は神の世界の罪だから人間では償えないらしい。
だからその原罪を償ったキリストは人ではないものになって
キリスト=神となるのだそうだ。

俺的解釈では 原罪=デカルトの曰く理性、知性
0005名無しさん@1周年NGNG
ということは「原罪思想」は、宗教からの「人間は神にはなれ
ないよ」という一種の脅しとして解釈してよろしいか? 人間に
理性(=盲目的信仰からの自由)を与えるかわりに、それを
“罪”として認識させておくという、飴とムチのような政策の
一環として?
その場合、順序はどちらが先になるのですか? もともと人間は
「自由」な存在だったが、その自由を濫用したために「罪」を
負ったのか、それとも生まれながらにして人間は「罪」を背負っ
た存在だったのか。誰かおしえちくれー
0006名無しさん@1周年NGNG
>その場合、順序はどちらが先になるのですか? もともと人間は
>「自由」な存在だったが、その自由を濫用したために「罪」を
>負ったのか、それとも生まれながらにして人間は「罪」を背負っ
>た存在だったのか。誰かおしえちくれー

創世記におけるはじめの人を人間と捉えるかどうかで
かわると思います。

あと2で言ってあるようにもともと創世記はユダヤ、ヘブライ信仰から
続いているものであり、キリスト教独自ではないです。ご注意を。

キリスト教の罪観においては
アウグスティヌスなどがよろしいと思います。
0007アダムの子NGNG
> キリスト教徒ではない日本人でも理解できますか?
> また何故キリスト教は、このような観念を作り出したのでしょうか?

原罪とは original sin という英語が示しているように、罪の歴史的起源を
探求する思索から生まれたものです。原罪で言うところの罪とは、倫理的な
個人の罪だけでなく、戦争や病気などの社会的罪も含めて、それらがどのよ
うにして歴史に登場したかを論じるときの一つの答えとなっています。

日本の伝統的思想には歴史観がありませんので、原罪が理解できないのです。
歴史観が無いところには原罪論も成立しないことはおわかりいただけると思
います。

歴史観が成立すると、罪がいつから始まったのかという問いが生まれます。それ
に対して、神が歴史の始まりならば、神に責任があるとの見解が生まれますが、
それでは、神の聖性と矛盾しますので、人間が悪いと言わざるを得なくなり
ます。ですから、最初の人間であるアダムが悪いという物語が生まれるのです。

原罪論とは、「この世の問題が神ではなく、人間の責任である」という信仰
告白と理解するとおわかりいただけるのではないでしょうか。
0008スレッドを立てた者NGNG
>7
>アダムの子 さん

なるほど。いやはや感激いたしました。2ちゃんでこんなマジ
レスをいただけるとは。実はまったく期待していなかったので。
なぜ僕がこんな古臭い問題を持ち出してきたかというと、実は
これが僕の夏休みの宿題だからです(笑)。
もし アダムの子 さんがよくこの板をご覧になるようでしたら、
少しここで神学的な議論の相手をしてもらえませんか? 僕は
どちらかというと哲学的な方面に関心が強いので、宗教的な
議論にはうといのです。

ところで原罪論が社会も含めた広く人間の「罪悪」の持つ、
歴史的起源を説明するために生み出された、ということは分かり
ましたが、そうすると、より根本的な問題として、なぜこの世界
に罪(悪)が存在するのか?という問題が浮上すると思うのですが。
たとえば罪の起源が「人間」の側にあるとしても、神が全能かつ
完全な善であるとするならば、世界に対するそうした悪の進入
も防ぎ得た、と思うのですが。例えば「創世記」第三章に出てくる
ヘビは、サタンが姿を変えたものとされていますが、サタンは神に
敵対する二元論的な悪の原理と考えるべきなのか、それとも結局は
神のコントロール下にある副次的なものと考えるべきなのか?
これによって原罪の解釈も変わってくると思うのですが。
できたら所謂「神義論」とからめてレスをお願いします。いや、
本当に暇な時でよろしいので。
0009名無しさん@1周年NGNG
a「ボクは2chがスキ、」
b「でもボクは2chはキライ」

a@`b「ボクはキミではない、ボクはボク」
人間がたくさんいるだけではなく、共同体も
たくさん出来てしまったあとの世界>罪の誕生


>サタン
現存の宗教の多くは二元的なものと副次的なものを
都合良く設定してるのではないでしょうか?

旧約全書のテクストだと、『ヨブ記』はあぶなっかしい
書き方をしている。
0010名無しさん@1周年NGNG
? ? ? 単に問題意識がちがうんじゃないの?
0011アダムの子NGNG
> 8
夏休みの宿題、大変ですね。こういうテーマは宿題としては、ち
ょっと重いのではと思いますが・・・。暑さに負けずに頑張って
ください。


> なぜこの世界に罪(悪)が存在するのか?という問題が浮上す
> ると思うのですが。
> たとえば罪の起源が「人間」の側にあるとしても、神が全能かつ
> 完全な善であるとするならば、世界に対するそうした悪の進入
> も防ぎ得た、と思うのですが。

いくつかの別次元の問いが重なっているような印象を受けます。
罪(悪)が存在するという認識もひとつの立場(イデオロギー)
でしかありません。論理的には、「罪(悪)はない」とい
う立場も可能です。つまり、罪(悪)の存在を論じることが、
すでに自分の主観を前提にしていると言うことです。

こういう言い方は誤解を招くかもしれませんので、別の言い
方もしておきましょう。

「原罪」とは、イデオロギー構造の問題で、罪の責任が
どこにあるかということです。当然、神に負わせる立場も可能な
のですが、サタンに負わせることも可能です。それぞれ、ひとつ
の立場(イデオロギー)になります。ただ、そのいずれであって
も、神の全能性とは矛盾します。それについて、問いかけておら
れるとするなら、私は次のようにお答えしようと思います。

「全能の神がなぜ、悪を阻止しなかったか?」という問いは、
「世界を創る前に、神は何をしていたか?」という問いと同じ
レベルのものであると思います。つまり、問いそのものの有意
味性が無いと言うか、少ないと言えるのではないでしょうか。

言葉とか単語というものは、真理を明らかにするため人間が作
り上げた道具であり、有効なときもありますが、役に立たない
ときもあるのです。

「神の全知全能性」をあまり深刻に問いかけるとわけが分から
なくなるものです。そう言う問いも悪いとは言いませんが、そ
の前に、原罪論が人間の社会的活動にどのような役割を果たし
たかを認識する方が重要ではないかと思います。

このあたりは長い説明が必要ですが、面倒くさいので端折り
ますが、社会問題を人間の責任と認識することが、社会変革や
歴史変革の精神的原動力となっていくという面があることを認
識してよいのではないでしょうか。

たとえば、古代人にとって洪水は大変な災厄でした。しかし、
これを自然に起きることとして見ないで、人間の責任とする
見解により、堤防工事とか、治水事業が起きてくるのです。
原罪という言葉はなかったにしても、原罪的考え方が、人間
の社会活動に大きなインパクトを与えたことは事実です。そ
して、このような考え方の重要性は今日でも変わりがありま
せん。原罪論は、イデオロギーとして正しいかどうかという
問い以前に、有効であるということを認識してはどうでしょ
うか。

その上で、先ほどの神と罪の問いに戻ってみますと、答えが
でなくてもあまり気にならなくなります。

二元論の問題は別にまた、論じることにしましょう。
0012名無しさん@1周年NGNG
なぜこの世に悪があるのかといった疑問は
キリスト教で何年も問いつづけられた問題だよね。
流出説のプロティノスとか
あとフィロン?とかが扱ってなかったっけ?
0013ThomasNGNG
中世のオーソドックスな考え方では神が造った被造物は
すべて善bonumなわけで…
とするとイブを誘惑に誘った蛇も限られた観点からすれば
悪ですが救済も含め偉大なる神の摂理providentiaの視座
からすればその悪を止揚して余りある全体的な善の秩序
のなかに原罪の意義もあるわけです。
原罪がなければキリストによる贖いもない訳で…
そうするとキリスト教の成立もなくなる訳ですからある意味
楽園追放は壮大なる神のご意志のもとに成立する一大プロジェクト
なのかもしれません。
神のご意志は計りかねるものなのでその本当の目的はわかりません
が…
0014スコトゥスNGNG
うわぁ 出た、 中世哲学ヲタ!
・・・でも貴重なご意見、有り難うございます。
0015ThomasNGNG
ps;13続き
神が創造した被造物がすべて善であるとすると、じゃあ悪って
のは何なんだという問いがあってしかるべきですが、悪malum
というのはなんらかの善の欠如(例えば盲目caecumという悪は視力の欠如)
と考えられていた訳で、そうすると善か悪かの二元論ではなく
より多く善かまたはより少なく善かのひとつの秩序ordoの中に
すべての被造物は含まれる訳です。
では非被造物たるDeusはどうかというとこれは被造物と存在のあり方
modus essendiを異にする最高善として考えられ、このDeusの完全な
善を不完全な形で模倣しているのが被造物なのです。
つまり善と存在とは概念ratioを異にするがモノresとしては同じもの
であるのです。
しかしこのように論を進めてもやはり責任の所在は自由意志論という
かたちで残るわけですべてがDeusの摂理の元にあるなら人間には
果たして自由意志というものがあるのか?もしすべてがDeusの予定の
もとに進行するならそんなものは実はないんじゃないかという問題があります。
でもこの立場をとると最後の審判において一体何を元にある人間を裁くのだという
問題になるわけで結局Deusの予定を認めながらも個々の人間の自由意志も認めるという
結構危なっかしい綱渡りをしなければいけない訳です。
この問題がルターやカルヴァンによって再び取り上げられる訳で…
(うぅ、でもこれ以上論じると異端審問ゆきだな、こりゃ。)
0016名無しさん@1周年NGNG
だれしもが持つある種の疑問、ある種の不安をうまく突いたもの>罪

アニミズム全盛のころは宗教、神話、物語、法、言語、思想
とは、みのもんたの番組みたいな権威づけによる恐怖の煽り立て
なんかをやっていればそれで済んでいた。

0017名無しさん@1周年NGNG
ユダヤ教ではアダムの最初の妻はリリスでイブは後妻なんでしょ?
で、蛇もリリスが変化したものだとか。
キリスト教とちょっと違う感じだけど
それはユダヤ教独特のものとして
完全にキリスト教と切り離しちゃっていいの?
西洋人の世界観っていまいち統合されてないっぽくて
分かりづらいんだよな〜
人間が自由意志を持つ生き物だというのもユダヤっぽい感じがするし・・
0018スコトゥスNGNG
恩寵予定説 VS 自由意思論 ?

上の固定ハンのわりに中世哲学には詳しくないので教えてください。
15のカキコを読んでいてひっかかったのは、

>つまり善と存在とは概念ratioを異にするがモノresとして
>は同じものであるのです。

という部分なのですが、この部分の「存在」というのは一般的な
意味での存在とは違うのですか?
つまり完全な善としての神こそ真実在(プラトン的な意味で?)
であり、被造物であるわれわれはその仮象でしかない、とかそん
な意味ですか?
0019オヨヨNGNG
ボコノン教では、

人 「神様、神様はなぜ私達を創造されたのですか?」
神様「何かが存在する為に,理由が必要かの〜?
   よろしい、それでは、その理由を考えることを
   おまえ達の存在理由にしてあげよう」
                  ・・・・・・だって。
(こまかい言葉は不正確です)
0020>18 / にせものですがNGNG
つまり、
保田 圭
は「モー娘。のメンバー」
といっても
「プッチのメンバー」といっても
いい、
ということです。
0021キルゴア・トラウトNGNG
いやー、ヴォネガットは鋭いよねー、まじで。>19

宗教に関する本質的なことは「猫のゆりかご」で見事に
喝破されてると思うよ。
0022キルゴア・トラウトNGNG
ちなみに、キリスト教の言わんとすることは
「強力なコネがあるものには手をだすな」
っちゅうことだそうだ。
イエスの持ってるコネは最強だかんね。(^_^)
0023ThomasNGNG
>18
私は答えて次のようにいうべきでしょう。
まず訂正しなければならないのは私が「存在」と訳した語は
ラテン語のensという語の翻訳であり、これは厳密には「存在者」
と訳すのが業界の通例です。ごめんなさい。
「存在」という語にあたるラテン語はesseという語でしてこれは
ensがその現在分詞にあたるのに対し、不定詞の形なのです。
(beingとtobeみたいなカンジでしょうか。)
厳密な意味でensと同じくesseと善bonumも等しいかどうかは議論あるところだ
と思いますが、ここではThomas・Aquinasの議論に対応させましょう。
閑話休題、さてご質問のことについてですがここでの「存在者」
という語は一般的な存在物と考えてなんらさしつかえありません。
「存在する」という意味でのこの存在者にはDeusすら含まれます。
(なんてったって彼御自身が「私はありてあるものである」なんて
いってんですから。)
ところでアリストテレス的には善の定義は「すべてのものが求めるところのもの」
ですから我々が全くの無nihilを求めることなんてありえない。(そもそも
我々の知性・感覚でDeusが創造を始められる前の無nihilなんて皆目捉えら
れない。)
だから「善=すべてのものが求めるもの」である以上善はなんらかの意味で
存在者でなければいけない訳です。
だから存在者と善とはrealな次元(例えばこの机とか、この本とか)で全く
同じものを指し、ただそれが善という語で表された時概念に「すべてのものが求めるもの」
ということが付け加えられるのです。
それゆえ遍く存在者はなんらかの意味で善であり、この思想の背景にはやはり
Deusが善であり(これはプラトン的要素も含まれる)またその方が創造したもの
は必ず善でなければならないという考え方があるのでしょう。
詳しくは『神学大全』第5問あたりを見ていただければ…
でもそこではアリストテレスの現実態actusと可能態potentiaを使った説明になっています。
「すべてのもの」という個所に非魂的な被造物も含ませているからでしょう。
でもこの説明でいくとそもそもこの二つの概念の説明もしなくてはいけなくなるので
しんどい。すみません。
0024ドゥンス・スコトゥスNGNG
>23
レスが遅れてすみません。見事ですね。いや文句なしに素晴らしい。
やはり持つべき友はヲタク友達・・・? というのは嘘。
他の人には興味を持たれないかもしれないけど。

18の問いに答えてくださってありがとうございます。結局、神と人
間の差異は esse と ens の差というよりも、創造者/被創造者と
いう差異が際立ってくるのでしょうか? またens と esse は

ens → being
esse → to be

という感じで理解すればいいですかね?

ところで今、僕はプロティノス(「善一なるもの」)→ アウグステ
ィヌス → 中世スコラ哲学(トマス・アクィナス、ドゥンス・スコ
トゥス)という線で「存在の一義性」について考えてみようかと思
っています。(とりわけスコトゥスはこの問題に関しては重要)そ
の場合、やはり「善」の定義が問題になってくる。例えばグノーシ
スの一派であったマニ教やイラン系のゾロアスター教でははっきり
した善悪二元論をとっている。一方、アウグスティヌスは悪を「
善の欠如」と定義して、悪の自立した「実在性」を認めていない。
プロティノスはアリストテレスの区別に従って、世界創造の“形相”
ではなく“質料”に悪の起源があったとして、巧妙に二元論を避け
ている。トマスの哲学も、むしろこのプロティノスの立場に近いと
言えるのでしょうか?
0025ドゥンス・スコトゥスNGNG
あと、トマスの哲学で分からないのは「恩寵論」と、先に挙がって
いる ens と esse の関係なのですが? 神もまた ens である、と
いうことは分かったのですが、すると esse は ens に対してどう
いう関係を持つのか・・・? 例えばトマスの重要なテーゼである
Essentia est per quam et in qua ens habet esse という
命題を例にして解説してくれませんか?(とりわけ ens が esse
を「所有する」、という言い回しがよく分からないのですが。)
0026ThomasNGNG
私は答えて以下のように言うべきでしょう。
まずトマスの立場においては第一質料は、ただ可能態に
おいてのみ存在者であるように、また可能態において善であるといわれるでしょう。
しかしプラトン派(新プラトン派のプロティノスも含まれるでしょう)の説によると第一質料
はそれに付加される欠如性のゆえに非存在者(=欠如=悪)であるともいわれるでしょう。
(アリストテレス−トマス路線では可能態=質料も存在者なのです。)
しかしそれにしても善への秩序ないし適合性という幾分かの善は分有しているのです。
というのも第一質料は善を欲求しますが、何物も自分に似たものを欲求するからです。
しかしトマスはプロティノスのような一者からの流出(つまりDeusと被造物の間に存在者
というordoが成立する)を考えず、あくまでDeusと被造物の間には無限の隔たりがあり、
Deusの存在と被造物との存在との間にはアナロギア的関係しかないというでしょう。
第二にessentiaはesseという動詞に由来する抽象名詞であり「あるもの」の「ある性」を示しています。
またそれはいまだあらず、あることへの可能性を示しています。
これにたいして動詞としてのesseはこの可能性を現実にあるものとしている、そのものの「ある」の現実態actus essendi
を意味します。
ところで我々はすべて「あらしめられてあるもの」でありDeusは我々を「あらしめているもの」です。
あらしめられてあるものとは、Deusからesseを受けて存在するものです。
我々はDeusから全存在をaccipereしてそれをDeusによってhabereさせてもらっている限り存在者ensであるのです。(無からの創造)
それゆえ、各事物の有する全存在は、まったくDeusのあらしめんとする意思に依存していてもし恩寵ということを
広い意味にとるなら、万物がまさにそのようにあること自体が、Deusの恩寵にほかならないのです。

0027考える名無しさんNGNG
eag
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