哲学者は、普段の生活にも責任をもつべきか?
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0001名無しさん
NGNG子供捨ててるじゃないか、と突っこまれるようなのは、ダメですか?
作家は作品にだけ責任を持てばいいと思うんだけど、哲学者はどうなん
でしょう。哲学者は、いつも哲学者であって、肩書きが外れるときは、
ないのでしょうか?
0002名無しさん
NGNG権力の亡者じゃないか、と突っこまれるようなのは、ダメですか?
作家は作品にだけ責任を持てばいいと思うんだけど、科学者はどうなん
でしょう。科学者は、いつも科学者であって、肩書きが外れるときは、
ないのでしょうか?
P.S
ニュートンは科学者じゃないってのはなしね
0003名無しさん
NGNG0004剣豪
NGNG小林秀雄は、作品は日々の生活を抜きには考えられぬが、同時に生活空間への別離を果たさぬ作品は無価値である、と述べている。
理論への衝動は生活への衝動と同系のものだ。この点で、理論化された作品にのみ責任を持つべきだというのは倒錯した考えであるとしか言いようが無い。
逆に、理論への衝動、思惟への誘惑を生み出さぬ生活態度など無意味であろう、と俺は思う。
0005名無しさん
NGNGそのとおりだけど、責任の問題は別だと思うんで……。
そして、科学者や思想家が実際何を生み出せるかは
小林秀雄の言い方からは解決されないと思う。
0006名無しさん
NGNG言行不一致などたいした問題ではない。
本物の哲学者ならば自分の評価など大して気にしていないし、
その著作を読む人は自分の役に立つものしか求めていないのだから。
0007剣豪
NGNG思想や科学の領分から倫理の問題を分ける傾向が含意している、ある種の責任逃れについて触れたかっただけです。
作品の生産や理論化の過程を、対他関係の考慮を排除する形で純粋に自己内の領分で純化しようとすることは、その傾向を貫徹しようとすればするほど、生産のツールとしての言葉や思考の社会性、公共性について盲目にならざるを得ない。
0008剣豪
NGNG例えば言葉の受容の契機においては、或る程度の自分勝手な解釈が可能だが、言葉を述べる際にはそうはいかない。モノローグの陥穽に陥らないとすれば、或る言葉についての社会的、公共的な理解内容を斟酌する必要がある。
それは言いかえれば、その言葉についての不特定多数の他者の合意を考慮するということだ。従って、著作や理論的構築物の形成段階ですでに、語る主体はそれを聞く他者との対他関係によって構造化されざるを得ない。
こうした対他関係の存在を否定するのも、或いはそれに埋没するのも無意味である、という自覚の上に倫理上の問題の本質がある。
自分は自分、他人は他人・・うーん。そうなんですけどねぇ。
>6は自分の書きこみに対するレスの内容が気にならないのか?正直に言えよ。俺は気になるね。もぉドキドキっすよ。
0009名無しさん
NGNGドイツ思想解読によるフランス思想というものがあるが
これは,
>ナチスには複雑な思いがあるがやはりシンパシーがある
ということ(笑)戦争責任について考えたく無いから
ドイツ人の思想を読む,,,
,,,こういった事から人は自由にはなれないでしょう。
ある事を考えることはなにかを考えないことで成り立つ。
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