絶対矛盾的自己同一
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001京大万歳
NGNG深いかた、ぜひここで話をおきかせください。3人も見つかれば万万歳です。
できれば個人的にメールのやり取りもしたいです。一即他、他即一とは
どういうことなのか、独我論を脱却したとあるがそれは実際どういう方法で
なされたのか、彼が哲学をした動機はどういうものだったのか、なぜ哲学を
するに至ったのか、またここにいる私達に即して考えると、我々はどう生きれば
いいのか、我々が哲学を志す動機はどういうものであるのか、など、
みなさんの意見を聞きたいことがたくさんあります。どうか一人でもいいから
その筋に詳しいひとが見つけてくれたらいいんやがなぁ!待っちょります。
0002名無しさん
NGNG0003京大万歳
NGNG0004どごんすい
NGNG「一即多は一緒くた」ですかい?
反対のものを「即」でくっつけられても煙に巻かれた気分になることはある。
分かったような分かんような〜で終わってしまうのだ。
字面を読み、頭で考えているだけでは十分ではないんでしょうね。
実際に深い意識変容経験でもしなければ、本当に分かったことにならなそう。
こういう人の本を読んでいると、あれこれ小難しいことを考えているよりも
禅でも組んだ方がいいんじゃないかと思えてきちゃいます。
しかし、それでも敢えて小難しい理屈に立ち返って思索するところが
西田の偉大なところなんでしょうかねぇ。
0005京大万歳
NGNG4さんメッセージありがとう
0006名無しさん
NGNG0007むむむ
NGNG0008京大万歳
NGNG0009むむむ>8
NGNG「らしい」というのは直接読んでいないからだ。大橋健二『日本陽明学奇蹟の系譜』という本に紹介されていたのを知っているに過ぎない。
まあ、王陽明の大悟は禅のようなものだから、陽明学自体禅に近いとは言える。
0010養老
NGNG岐阜の養老天命反転地に行ってみるのも一興かと。
0011いいので
NGNG0012無字
NGNG過去ログで結構触れています。晩年の西田は大好きですね。
0013>12
NGNG0014落合
NGNG「即」の論理というのは、中国で展開された大乗仏教の思想に
あるもので、詳しく云うと「即是」と「即非」と二つある。
即是というのは般若心経の
空即是色(形なきものは、形有るものである)
色即是空(形ある物は、形なきものである)
にように、相対立する規定の一致を表すもの。
西欧中世のキリスト教神秘主義で云う
coincidentia oppositorum (対立の一致)に似ています。
「即非」というのは、
仏説般若波羅蜜多即非般若波羅蜜多 是名般若波羅蜜多
のように
仏説A即非A 是名A
という形の言説です。
「仏の説くAはAにあらず ゆえにAと名づく」
こちらは、形式的には、A=Aという同一性言明を
否定を介して肯定するという論理になります。
西田哲学の場合、ひじょうにおおざっぱな言い方になりますが
「一即多」が「即是」の論理に
「絶対矛盾的自己同一」が「即非」の論理に対応している。
これらは、東洋に於ける弁証法的思考の原型と言って良いでしょう。
併し、このような「即」の論理を厳密に論じるには
西欧のもっとも進んだ弁証法的論理である
ヘーゲルの論理学と対決させる必要がある。そして
これが、西田やその後継者達の課題の一つになっています。
ところで、こういった問題に関心が有れば
http://www.sfc.keio.ac.jp/%7Et95080si/msb/home/ochiai/religion/
で、ヘーゲルのエンチクロペディー読書会をやっていますから
興味が有ればご参加下さい。
0015京大万歳
NGNG12,13,14の落合さんどうもありがとうございます。朝まで生テレビのそのチャットのやつ、
ぜひみてみたいものです。これからヤフーで検索の旅にでるとするか。
ところで「即是」と「即非」のお話、初めて伺いました。とても興味をそそられました。
投稿にありました「同一性証明を否定を介して肯定する」という箇所がどういう意味なのかよく
分からないのですが、どういうことなのでしょうか。お暇なじかんがありましたら
投稿ください。こういう話はちょっと数学をまともにやっとらんと分からんもんなんやろうかと
思っておる次第です。本を読むとよく「絶対に死して絶後に蘇る」という表現が出てきますが、
それとも関係が大にあると思うのですが、どうでしょう?
ともかくもこのスレッドが細細と生き続けるのを願うばかりであります・・・。ばんばん投稿してください!
0016京大万歳
NGNG0017>15
NGNGあんた態度デカイよ。もうちょっと座禅して考えなさい。
0018落合
NGNGひまなときにひとつづつ問題を絞って考えてみましょう。
(以下のような問題は、決して万人向けではありません。
ほそぼそと続けることに賛成します)
=======「AはAである」を超えて考えること========
まず、Aという語が何かある「もの(実体)」を名指すと考える
と、ただちに、Aは「他のものとは独立に、それだけで考えることの
できるもの」として了解され、A=Aという同一性言明は、
無条件で必然的に真なるものと判断される。
そうすれば、「AはAではない」とか「Aは非Aである」という
言明は不可能な命題として、最初から排除されるでしょう。
このような論理を、西田は「対象論理」と呼びます。主語的な存在
を「対象化」して、それについて語るためには、同一律、矛盾律
排中律、充足理由律のごとき論理学の公理が要請される。
その場合、これらの「公理」の起源を辿るという「弁証法的思考」が
忘却されてしまうのです。対象論理は、簡単に言えば、「科学の論理」
です。それは、現代的に言えば、情報処理の論理といって良いでしょう。
(現代科学でlogicといえば、情報処理の基礎理論を指すようですね)
ところが、哲学の論理というのは、このような、形式論理の基礎を
あらためて問題にするものなのです。そこでは、「同一律」の意味が
まさに問題となる。フィヒテが「AはAである」という根本命題
の吟味に粉骨砕身したのも、このような哲学的論理の文脈においてでした。
西田は、「自覚に於ける直観と反省」において、このフィヒテの立場に近いところから
出発しましたが、やがて、それをさらに乗り越える必要を感じます。
フィヒテのばあいは、自我の存在(=活動)が、表象において与えられる対象的存在よりも
根本的なものですが、「私は私である」という根本的な自己同一性の背後には
立ち入っていません。西田は、フィヒテの中にさえ残存していた実体的思考を払拭
して、自我を「実体」ではなく「場所」として捉える論理を提示したのです。
これが、中期西田哲学で言う「場所の論理」の原点です。
0019QJ
NGNG実は、哲学系の大学への3年次編入を考えているものなんですが。
東大も射程に入れてるんですが、あそこは、教養学部と文学部
二つ哲学かがありますよね。あの二つの学科は、実質的に
どこが違うんですか。誰か知っている人がいたら教えて。
0020無字
NGNG思考の残滓を西田が否定した、というのが、ヘーゲルのディアレクティック
とどう結びつくのか、説明して欲しい。
あまり弁証法から西田に入ろうとすると、比喩的な表現に足を
掬われかねないと思う。晩年の西田は明らかにライプニッツの方に
近いので、そちらの方を通じて考えた方が良いのでは?
あと、仏教にしても華厳から入ったほうが良い。鎌田茂雄さんの
入門書なんかからでもいいから。華厳経そのものはとりとめもない
ものだけれども、華厳教学の確立者である法蔵の『金獅子章』は面白い
禅なんかを論理学風に定式化しようとするのは、しょうもないし、
それを否定する論理なんだと延々主張するのもいやなものです。
0021おまえもな
NGNG「マイナー」(括弧付きね)な話題の方が実りある展開になりがちだね。
目立たないように頑張れ!
0022無字
NGNGコメントが・・・・。
何か書いてから物言えよ。くだらん。
0023落合
NGNG21さんのコメントは結構じゃないですか。
「マイナー」にカッコが入っているのがよい。(^_^)
ところで、このスレッドは『絶対矛盾的自己同一』
なので、私は、弁証法の話をしましたが、後期西田哲学
の全体を知るには、あなたが仰るように、華厳仏教を
射程に入れる必要があります。
ただ、西田の蔵書には華厳関係のものが含まれていますが、
専門的な論文で、華厳は殆ど引用されてはいません。
(大拙は華厳思想の重要性を晩年強調しており、それを
西田が知っていたことは確かですが)
ライプニッツについては、弟子の下村寅太郎の研究に触発されて
「予定調和を手引きとする宗教哲学」を論じていますね。
それは、やはり個物というものの意義を彼が重視したからで、
即非の論理から、個の人格性と歴史性を論じるのが西田の狙いだった。
わたしの見るところでは、西田の重要性は、仏教思想を
西洋哲学の範疇で表現したなどというレベルで理解すべきではない。
彼個人のオリジナルな思索、個人的なものを通して得られる
普遍性、世界性を強調すべきであると思います。
0024無字
NGNG華厳を入り口にするのが一番分かりやすいだろうというのが一つ。
というのも、密教も、禅も、浄土宗も、それから日本独特の芸術
に見られる美学も、華厳に由来するものが多く、そこから直接に
派生してきているからです。
因陀羅網の喩えなどは、そのままライプニッツ哲学を説明する
場合の喩えとして利用出来そうなものですし、実際そういう研究
もある。京大系の研究者が書いたライプニッツの論文を読むと、
堂々と「重々無尽のモナド世界」などと書いている。
私の考えでは、西田はライプニッツが、モナドの相互影響を
与える部分と、与えない単純実体の部分(「窓の無い」部分)
を分離したのに対し、そうした区分をせず、モナドの相互限定
を一つの単位として、モナドロジーを組み立てるような思考を
見せたのだと思うんです。そうした相互限定の関係が現われる
ところで、ライプニッツが説いたような単純実体の「先在」の
ようなものが相互否定され、空転すると見た。「先在」という
時間軸が相対化され、空転するところを、彼は時間的比喩のらち
外にある運動を受け容れる何ものかとして、「場所」と呼んだ。
この「場所」と「場所」が更にどんどん相互限定されていくような
ものとして彼はモナドロジーの全体を再構成出来ると考えた、という
ことでしょうか。
モナドロジー自体については、参考書も多いし自分でお勉強して下
さい、という感じかな。
0025落合
NGNGライプニッツのモナドロジーというのは、デカルトやスピノザがそうで
あったように形而上学的な実体概念を前提している。
即ち「主語となって述語とならぬもの」
(これはアリストテレスの範疇論の個的実体の規定)
という論理構造をベースにしている。この実体概念からは
実体相互の交流ということが出てこない。
「述語となって主語とならない」場の考え方があって
初めて、「実体優位の思索」を超えることが出きるのです。
その点において、無字さんと私の理解の方向は、一致点が
見いだせるかも知れません。
ただし、モナドロジーの論理というのは、基本的には
非弁証法的な「分析論理」です。すべての真なる判断は
分析判断であるというライプニッツの基本的な考えには
難点がある。
主語概念を超える述語概念をもつ判断の真理性を何によって
基礎付けるのか−−
この問題について、無字さんはどう考えますか?
0026無字
NGNGに基づいてクーチュラらが定式化したものですよね。
「主語概念を超える述語概念」と言われているのは、ちょっと
今風(爆)の言い方をすると、「固有名が孕んでいる郵便性」という
ことになるのかな。
ライプニッツの整理の仕方としては、論理学に依るものとか、ハイデカー
のように「力」が実体として要請されてくるものとして読むものとか、カッシラー
のようにカントに近づけて読むものとか、色々あるでしょう。ライプニッツ
の場合も、モナドの表出内容の交流ということは頻りに言うわけで、共可能性の
確認を通じた相互表出の相互交流があって初めて、予定調和という形而上学的な
仮定も可能になり、それに保証されるかたちで単純実体の先在ということも言われる
ようになる。
実際には、こうした共可能性の確認の方が、先在している単純実体よりも先行しているわけ
です。ですから、こうした共可能性や相互表出を足掛かりにして、モナドの一つの軸から他の
軸への影響、更には相互影響ということを考える。そうするとここで、
モナドの相互限定という閉鎖的な単位(場所)を考察することが可能になる。
そうしてこの場所もどんどん(相互影響によって)相対化されるモデルを
極限まで考える。この極限が、閉鎖の極限=照応の極限、となっている仮想の
状態であり、ライプニッツで言えば偶然的真理と必然的真理の逆説的な一致状況
にあたるものとなる。(矛盾的一致)特殊を押せば普遍が出る、というロジック
は、一般の西洋の形而上学であるが、これは特殊のベクトルへの不可逆的な推移
を前提にしてしか論理が語られておらず、自己更新的、かつ自己否定的でもあり、
結局目標地点である特殊も、達しえない消失点のようになる。
多重円環的なモデルでは、この直線性が改良されるので、仮設的論証法のような
手法をぼちぼち使いながら展開していけば、無限の自己否定に陥らずに個を取り扱う
ことが出来る。
0027無字
NGNGわけではないですか。
モナドの交流や影響による流動を経て、徐々に相互限定によって
成立した単位が実体になってくるようなモデルを確実に作ればいいわけです。
そうであってこそ、各々の場所は「一般者の自己限定」であるということになる。
相互限定が相互限定によって相対化されることは、ゲシュタルトの反復であるに
過ぎません。こうした相互性の多重な環を実現しているものの方が、より
実体として深化している、そういう判断の基準を立てることが出来るでしょう。
(何だか誰だかバレバレですね)
0028京大万歳
NGNG読んでみましょう。楽しみだ。
東大教養学部のは「科学哲学」だと思います。
0029にこう
NGNG>は、一般の西洋の形而上学であるが、これは特殊のベクトルへの不可逆的な推移
>を前提にしてしか論理が語られておらず、自己更新的、かつ自己否定的でもあり、
>結局目標地点である特殊も、達しえない消失点のようになる。
西洋の形而上学をヘーゲル的理解でもってまとめるのは危険です。
哲学史的に見ても普遍は自己否定的に抽出された概念とは
言えないですよ。
0030無字
NGNG言い換えて、その関係を色々言ってみても、その場合はやはり文字どおり
の個物は排除されてしまっているのですよ。西田の『現実の世界の論理的構造』
なんかでは、そのあたりのことを詳しく論じていますね。
それと自己否定的と言ったのは、個物にまで至ろうとする道筋が単線的であって、
しかも道筋を進むことによって絶えず自己更新するように目的に向かうのだが、
後から振り返るとやはりそれも一般でしかない、といった具合にしか論理構成が
なされていない、ということが言いたかったのであって、特にヘーゲルに限った
話をしたかったわけではありません。
むしろカントが到達できないことを指摘したもの、「消失点」から、開き直って
論理を展開したヘーゲルが例外的であると言えるのですが、「消失点」的な達し得ない
もの自体は伝統的に共有されている。その意味ではライプニッツもそうなので、だから
こそ彼の後にカントが出て来たというわけでしょう。
0031名無しさん
NGNGその昔ヘラクレイトスによって指摘されています。
記号や理論のみならず、一見、素に思える各種の
感覚所与も生物学的な普遍化機構の歴史を抜きに
しては語れないように思われます。個物とはそう
いう普遍と特殊の間の微妙な産物なのかも知れま
せんよ。
普遍→一般化して処理・絶対者を思わせる→現実的な
個物の軽視・普遍への奉仕→普遍=悪を思考から外すべし
みたいな道徳観に思考が影響されている気配がある
ような気がしたのです。普遍の風味はなかなか味わい
深いのでその苦みを取るためにすべての味をとばして
しまうのはもったいない。
0032無字
NGNG言ってないじゃないですか。
むしろ個物にアプローチするのに、相互照応や相互限定のような他との
関係をとことん経由しようと言っているわけで、普遍に個物を織り込む
ような思考を展開しようと言いたかったのです。「個は個に対して始めて
個」と西田も言ってますね。
個物や特殊を目的化してアプローチするから取り損なうので、相互限定の
ような円環性の複合した構造を経由して、その曲折を辿って個物や特殊を
理論上扱えるようにする、そういうのが良いんじゃないかと。
よく西田を主客未分とかケルケゴオルとかで解釈しようとする馬鹿がいますが、
晩年の西田がそんなものであるわけがないだろう。よく字を読め、と言いたいで
すね。
003331
NGNGついでに余計にはみ出してしまったようです。
モナド論を論じているところですね。たしかに
そういう感じの文脈です。
俗っぽい理解かも知れませんが、個物にアプローチ
するのに、あまり相互規定をとことん経由や曲折したり
色々しすぎると個物の持つストレートなリアリティ・
プレゼンスが逆に失われてしまうような結果になら
ないのでしょうか?
>よく西田を主客未分とかケルケゴオルとかで解釈しよう
>とする馬鹿がいますが、 晩年の西田がそんなものである
>わけがないだろう。よく字を読め、と言いたいですね。
実は西田もケルケも読んだことがありません。
だから、自分がわかるところだけレスをつけただけで、
あなたの西田読解そのものに異論を挟むつもりはあり
ません。
機会があったら西洋の哲学史に出てくる
哲学者の方もよく字を読んでみてください。
0034QJ
NGNGThanx!!こんな場違いな質問にちらりとでも答えてくださいまして
有難うございました。
西田哲学に就いても少し興味があって、これから少し勉強してみます。
入門的な本などありましたら何か紹介して。
0035無字
NGNGから哲学を理解しようとしない方が良いかもしれない。
学説史みたいなことを言い出すと、どうしても浅薄になるしね。
西田さんの場合も、多少相互限定を持ってくるのが早すぎるところが
あると個人的には思う。相互性、円環性みたいなものは、もっと迂遠に
見出されるものだと思うし、円環の多重性が重要なのであって、円環がすぐに
作られることが重要なのではないからです。ちょっとアクチュアリティに
こだわり過ぎた。そのあたりで、歴史的に微妙な時代に、同時代の意義を
位置づけようとしていたこともあって、戦後わかってもいない人間に足を
掬われる(もう死んでいたが)ことにもなった。
敗戦のどさくさで、戦前の一流の人を否定して自分がその位置に立とうと
した醜い二流の人間が沢山出てきたことや、そもそも戦争で優秀な人間が多く
死んでしまったことが、西田の価値を伝えることを妨げたと思う。
西田シンパでも、梅原や中村雄二郎の理解なんてほんとに程度低いもんねぇ。
単なるジャーナリズムなんだもの・・・。
0036名無しさん
NGNG自負と心意気だけは買いますよ。(笑)
言葉負けしないように深淵な思想を構築してくださいね。
0037無字
NGNG自分だけという気はないが、ジャーナリズムにずさんな解釈が
横行しているのは確かだね。
でも去年でた米山優さんの『モナドロジーの美学、ライプニッツ、
西田、アラン』なんて、良かったじゃないですか。
この前下らないTVを観ていたら、素人がトキオといっしょにボクシング
のプロテストを受けるための練習試合をしてるんだけど、弱いの。一発で
倒されちゃって、自分が負けたことも分からなかったり、へたりこんで俺
もう出来ないっす、とか言ってるわけ。それで辰吉に、勝とうという気が
ないとか言って、叱られる。負けるにしても負け方があるだろうと言って・・・。
これは何でも一緒だと思うよ・・・。自負心の無い奴は最初から駄目。
斜に構えて格好つけてても、ガードも何もないの。
。
めちゃくちゃ格好悪いよ。
0038名無しさん
NGNG>自分だけという気はないが、
>でも去年でた米山優さんの『モナドロジーの美学、ライプニッツ、
>西田、アラン』なんて、良かったじゃないですか。
なんだよ、もう腰砕けかよ。
俺が一番って偉そうにつっぱるんなら、最後までつっぱれよ。
情けねーなー。
0039>37 38
NGNG37さんもプロと自負するなら、素人さん相手にかっとなって
本気になっているようではまだまだ一人前とはいえませんよ。
指導碁を打つようにやさしく対応してあげましょう。
38さんも相手を怒らせるような言い方をして刺激する
のは謹んでください。論争に負けた?からといって議論
と関係のない事柄を持ち出して暴言を吐いてはいけません。
口には十分気をつけましょう。
=====無意味な喧嘩は以後禁止======
0040考える名無しさん
NGNG0041考える名無しさん
NGNG0042考える名無しさん
NGNG絶対矛盾的自己同一=池中ゲンタ
0043考える名無しさん
NGNGちょっとプレイヤーが少ないけど・・
0044考える名無しさん
NGNG絶対矛盾的自己同一=天才バカボン
0045考える名無しさん
NGNG■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています