考える、ということ
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0001僕はこう考える
NGNGならぬ状況に追い込まれた、ともいえます。自分には、基本的に、快楽
主義の部分があり、平常は、もっと快楽的な時間の使い方をいています。
あなたは、純粋に、積極的な知的好奇心だけで、「哲学みたいなコト」
を深く考えることができますか?「負」のショックが大きな原動力に
なった経験がおありの方の意見を求めます。
0002端的に言って
NGNG0003やさしいサヨクな僕
NGNG0004名無しさん
NGNGわたくしは哲学に人生の救いを求めようとしましたが
哲学は救いの学問ではない 救いは宗教の範疇であると いいます
そうだとしたら わたくしは 哲学に対して不順な動機を持っていたといわざるを得ません
というか うんち
0005名無しさん
NGNG強く惹かれたがつもりだったが、今思えば、『負』のショックの原動力が
大きかったのだと思う。 いろいろと、かなり深く悩んでたからね。
0006マジレス
NGNGことを志して哲学を専攻したが、周囲の人間があまりにも深く考えない人間
ばかりであったので、周囲の人間と軋轢が生じ、「負」のショックを受けた。
0007マジレス
NGNG哲学は危機のときではなく平時のときに十分に練られるべきだと聞いたことがある。
追い詰められたときに考えられた思想は本当の哲学ではないそうだ。
0008僕はこう考える
NGNGみなさんレスありがとう。5さん、実は僕も学生時代に、同じように
考えたことがあり、それが今に生き、「ささえのようなモノ」になっ
ています。
その当時は、明らかに「苦痛」で、自分では「救済」(4.名無しさん)
を求めていたような記憶もありますが、宗教の本に手は伸びませんでした。
何故かというと、「答え」ではなく、本に書かれていた「アイデア」に
恐ろしく「共感」したからです。その本は哲学の売り場にありました。
結果として、肉体的には「救済された」、と言えなくもありません。
これまで僕なりに「快活な生活」(NHK出版 萩野弘之 哲学の原風景 149P)
が送られてきたと思うのですが、それは「負のショック」により「考えるコト」が、
現実的に「死の練習」(同 54P)になりえた、と置き換えられる気がします。
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