ハイデガー「黒ノート」についての三島の文章の紹介
しかし黒ノートに関して、日本語で読めるまとまった紹介は今まで存在しなかった。
ありがたいことに、ドイツ哲学者の三島憲一がみすず書房の『月刊みすず 7月号』に「ハイデガーの『黒ノート』をめぐって ――反ユダヤ主義と現実感覚の喪失」を寄稿している。本記事ではこれを紹介する。
ハイデガーは『存在と時間』から思索を深めるうち、全世界を覆う現代技術文明の哲学的批判へとしだいに関心を移していく。この技術論は、彼のコミットしたナチズムや、隠された反ユダヤ主義とどう関わっているのか?
ハイデガーは、彼が頻繁に「巨大なもの」と呼ぶ現代技術を批判し、それとは「別の新たな始まり」を目指すつもりだったようだ。
「巨大なものの最も秘匿されたありよう、ひょっとして最古のありようは、計算高く、ずるがしこく、札を巧みに混ぜて切り返すしぶとい狡猾さだ。これを通じてユダヤ人たちによる、世界を持たないあり方Weltlosigkeitが創出されたのだ。」
ここでは「ユダヤ人はずるい、狡猾だ」といった月並みなステレオタイプが確認できる。ユダヤ人たちは巨大なもの、現代技術の隠れたありようを用いて世界を持たないあり方Weltlosigkeitを創出する。どういうことだろうか。
「プラトンから近代形而上学を経て科学技術へ、そして潜在的なニヒリズムが顕在化する」という連続性の物語。この線上で近代形而上学と現代技術、およびニヒリズムがつながる。とにかくもこのハイデガーの物語、ドグマこそ彼の後期のいわゆるの存在史の核である。
ユダヤ人は西欧近代の形而上学に住み込むことで、このニヒリズムに加担してきたということだろう
「おなじ理由から、どんな<平和主義>も<リベラリズム>も、本質的な決断の領野にまで突き進むことはできない。なぜなら、そうしたものは、純粋の、また不純の戦士精神の対抗者になるのが、せいぜいだからだ。
現代のいわゆる「反グローバリズム」とそれを支える人種主義、民族主義について示唆的な箇所もある。