>>335

 慈悲が先か、悟りが先か、という問題については、ここではこう、あそこではこう、という具合に相対化するしかないでしょう。

 たとえば、ヴィパッサナの地橋氏は、慈悲の瞑想を紹介してますが、それはなんというか、修行です。

 ということは、その修行の後に果報として悟りが待っているわけです。

 一方、アドヴァイタ的な体験をした禅者は、その見性において慈悲心に見舞われる。

 この体験では、悟ったのちの慈悲心の発露ということになると思います。