>>313

>  「親鸞会は当てにはならない」というのはそうかもしれんが、
> だからといってハイデガー的論法と親鸞的論法にある類似まで消し去る
> 必要はない。またそれを読みこむことで両者におけるエッセンス
> を取り出すことにもなる。何ら不都合はない。

 無理でしょう。まず親鸞会と親鸞は切り離して欲しい。
 あの団体は詐欺師を教師にしている。

 つぎに、親鸞とハイデガーの間に繋がりがあるのであれば、どういうつながりなのか。

 ハイデガーが親鸞を評価していたというのはデマだから考慮する必要はない。

 とすると、残るはテキスト的検証のみ。唯円の歎異抄は除く。
 となると『教行信証』と『存在と時間』か。

 『存在と時間』は、一切を時間で解釈するという話。
 カントの純理と同じ。ただ、時間で解釈するのが主に人間の心性であって、カテゴリーではないという違いくらい。

 一方『教行信証』には人間的心性を時間性で解釈するような場面があるのだろうか。