>>316
>親鸞的他力と、ハイデガーの被投性が似ているってこと?
>それはいくらなんでも、強引かと

 「ハイデガーの被投性」てのは実は企投(有の理解、存在了解)について、
それは主体の為せるわざであるがその実体は、被投性にこそある、ということ
でしょう。なので彼は被投的企投等と言っている。企投とは実体としては
被投的なのだ、とね。

 ここは彼の存在論の破壊性、脱-構築性をよく表している。またこれを
主体を有とする対象が人間なのだと言っても良い。またこれを親鸞的に
他力と言っても良い。そういう意味。

 親鸞の思想に於いてもまた人間の主体性は換骨奪胎されている。そこでは
信心というのは自主的なものではなくて「弥陀の光明に照らされまふらする
ゆへに一念発起する」とされる。阿弥陀に光に照らされたからこそ信心は
起こるとする。やはり自力ではないわけ。

 そう考えていくと通路はあるとしか言えない。