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■■■■自由意志はない…決定論■■■■

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001 考える名無しさんNGNG
人間の脳は物体、物質であり、物理法則に従う。
したがって、自由意志はない。
という決定論を否定する奴はいるのか?
0153考える名無しさんNGNG
>>138

>人間の行為が何の原因にも左右されず自由だったら、「無から有が生じる」ことを認めなければなりません

カントの第3アンチノミーのテーゼで似たようなこと言ってませんでした?

>だからといって人間の行為に先立つ原因を認めたうえで自由意志があることを認めようとしたら(原因→自由意志→行為)、自由意志がどのように行為に影響を与えたかを説明しなくてはならず、議論は苦しくなります。

自然による原因、自由意志による原因、結果としての行為の関係は、
カントやら中島義道やらが躍起になって説明してるけど、それはどうでしょう?

>>141

>私はこの意味で決定論を排除しつつ
>しかしそんなに自由でもない、と思うのです。

ほんの少しでも自由を認めてしまえば、物理法則は総崩れだと思います。

>>134氏

飛ばし読みなので読み間違ってたら指摘して頂きたいが、
決定論とは、>>134氏が考えているようなものではなく、
「時間にそって現象が一通りに決まる」というものではないの?
人間がそれを法則化できるかどうかではなく、
結局一通りとなる、というのがエッセンスだと思うのだが。

たとえば、確率に関しても、確率で石の割れ方が変動するにしても、
現象の可能性を1つに決定した何かがあるわけではない。
つまり、何らか自体によってが石の割れ方が決まったわけではない(自体によって=理論上の自由)。
時間の流れに沿って考えると、一通りであるわけだから。

水の状態を何通りでも想定できることは、水の状態の自由を保証するものではありえないんじゃない?
いくら想定できたとしても、具体的な各々の水を時間に沿って見れば、状態は確実に一通りであるから。
0154ルサンチマンな名無し改めルサンチマン伊藤NGNG
>>152
 改めて私の立場を明らかにしたいが,私は作用因的決定論者です.
 目的論的決定論について述べた意図は決定論を作用因と目的論で混同しないためです.
0155ルサンチマンな名無し改めルサンチマン伊藤NGNG
>>153
 別のスレでカントの第三アンチノミーについて言っていたが良くわからなかった.(カント嫌い)
 ただ,カント以前に,ホッブズもまた『自由と必然』において自由意志のこの問題について示唆していた.
 >自然による原因、自由意志による原因、結果としての行為の関係は、
 >カントやら中島義道やらが躍起になって説明してるけど、それはどうでしょう?
このへんについてはもう少し説明をお願いします.


0156135、136NGNG
難しい哲学の理屈はわかりませんが、>>149のルサンチマンな名無しさんのおっしゃることはあべこべな気がします。
人間の世界認識が非常にいいかげんなものだからこそ、
同一の刺激に対する反応にも幅が生じ、
それを意思と言うんだと思いますが??
0157考える名無しさんNGNG
>>151
>「明日パチンコに行っても負けてしまう」ことが必然になって
たとえ決定論的に世界が振舞っていても、
我々は未来を知りえないのだから
スリルをもってゲームに勝負できると思います。
0158134NGNG
>148 (ルサンチマン伊藤氏)

石が割れる場面の比喩でよいと思います。
割れ方は決定されていない。大体こんな感じ、
というような結果の収束の仕方です。
だから破壊力学はとても難しい。

このことに関して150氏と153氏(同じ方でしょうか)が、
事態が生じたあとから見たら、起きた事態はひとつしかない、
これは事態が決定されているということではないか、
と疑問を提しています。

結果から過去を眺めたときに事態が決定されていることはその通りです。
過去はひとつしかない。
しかし、それはその事態が既に決定されていたということではないと思います。

今という時点で目の前に石がある。
この石は2つに割れるかもしれないし、3つに割れるかもしれない。

脳は物質から構成されている、他にはありえないと私は考えます。
そこでこの石の比喩、割れ方の可能性が開かれている部分を自由と私は考えます。
0159ルサンチマンな名無し改めルサンチマン伊藤NGNG
>>156
自由意志を認めるには,まず,AがBやB’やB”といった複数の結果を生じる可能性があることを認めなければなりません。
ここでもし人間の世界認識がいいかげんだったら「現象設定の解像度問題」ではねられます.
あなたがAだと思っている出来事は本当にAなのか?A’またはA”ではないのか?このように反論されるのです.
では人間の世界認識が非常にいいかげんなものであることを認め,同一の刺激に対する反応にも幅が生じることを認めましょう.(A→自由意志→B∪C∪D)
しかしこのときこの「私」は果たしてAをAとして認識していたのでしょうか?
AをA’またはA”として認識していたのではないでしょうか?
したがって,実際にはA’と認識してCと行為する,またはA”と認識してDと行為する,という決定論は保持されるのです.

 
0160ルサンチマン伊藤NGNG
>>157
そうかなー?たしかに未来はわからないがすでに決定されていることはわかるからそれだけでも嫌になるよ.
「パチンコに勝てば自由意志,負ければ決定論」
0161いまさらだがNGNG
>>128
自由=自由意志はないという罠。
0162134NGNG
>149 現象設定の解像度問題に関してA(ルサンチマン伊藤氏への応答)


つらつらと原因Aの解像度に関して考えていました。
次のような考えにまとまりました。

昔大学などでよく跋扈していた「原理」サークルの勧誘などで使われていた
理屈から始めます。

物質とその構成要素を考えてみます。たとえば蛋白質。
蛋白質は分子が構成要素です。
分子の構成要素は原子です。
原子の構成要素は陽子や電子です。

といように物質の構成要素をたどっていくといくらでもミクロになっていく。
じゃあ究極の構成要素は一体なんであるのか?
究極の構成要素が究極であることをいかにして証明できるのか?
科学にはその証明をすることができない。

だから科学では世界を説明できない
というような理屈で「原理」サークルは勧誘していました。
0163134NGNG
>149 現象設定の解像度問題に関してB(ルサンチマン伊藤氏への応答)

この理屈と科学的な認識の違いは次のようにいえると思います。

自然界は階層になっていて、ミクロからマクロ、現象の規模はさまざまです。
科学は、マクロの現象を、ミクロな現象の組み合わせで説明する、という行為です。
これを還元主義ともいいます。

このときに、ミクロが究極の根本現象である必要はない。
社会集団の行動を、原子から説明しようとする科学者はいない。階層が離れすぎていて
ミクロとマクロを関係付けることができないからです。
人間の行動から社会集団の行動を説明することはまだ可能です。

人間にはもっとミクロな構成要素(器官、組織、細胞、、、)があるのは当然です。
しかし、あえて人間を原因として社会集団を結果として説明する。
人間、という階層を抜き出して、ひとつのまとまりとしてかんがえるわけです。
人間という階層のレベルがミクロとして設定される。

したがって構成要素はかならずしも究極の分割不可能な因子である必要はない。
ミクロとマクロの関係を結びつけることができれば、どの階層をとりだしてもいいのです。
0164134NGNG
>149 現象設定の解像度問題に関してc(ルサンチマン伊藤氏への応答)

原因Aに戻りましょう。私達が分解不可能と考えている原因Aが実は構成原因A’、構成原因A’’
構成原因A’’’などから構成されていて、単に我々が原因を設定する際に現象認識の解像度が
低いためにこれらの根源原因の差を認識することができない、というのが
現象設定の解像度問題でした。

我々は根源原因A’とA''の違いを認識することができない。
そもそもそのような違いがあるかどうかもわからない。
しかしこれらの根源原因は原因Aというグループに属するということはいえます。
そもそも原因A自身を我々は認識しているのだから、想像上の構成原因A’、A'’、、、は
原因Aのグループであると断言できる。
原因Aの中にさまざまな要素があるかもしれないが、原因Aの性質としてはまとまりがある。

したがって、ここで上の段で言ったことを参照にしましょう。
原因Aにはさらに究極の原因A’やA'’に分割できるかもしれない。

原因Aというグループが結果Bというグループをもたらす
因果関係があるとします。Aは変数であり、Bも変数である。
いずれの変数にもあるまとまりがあり、規定がある。
こうした状態でも、原因グループAと結果グループBの因果関係があるならば、
それはメカニズムです。

究極原因A’を知ることは決してできない。いわば判断不可能である。
したがってA’とB’という関係が決定されているかどうかも不可知です。

したがって、現象グループAと現象グループBの関係、という考え方を導入します。
そしていずれにも現象に幅がある。大体こうなっている、という幅です。

この幅が自由なのではないか。
0165考える名無しさんNGNG
>>159
えーと、ですから、Aという刺激をA’と認知したりA''と認知したりできる時点で
決定論から逃れてますってば。
決定論が正しいなら刺激Aはいつも同じモノとして受け取られないといけないのでは?
0166134NGNG
↑なんか書いてみたら「したがって」
だらけで恥ずかしいなあ。
文章の良し悪しは甘くみてください。
0167あちょーNGNG
>>134
物理学は、自然法則の決定論的な解明を目指しているとおもう。
1さんのいう物理法則は間違いではないとおもう。
0168考える名無しさんNGNG
>>167
目指しているという事と自然が決定論的な法則を持つと言う事は全然違う。
あほ。
0169134NGNG
>165

私も賛同する指摘です。

さっき書いたことにしたがって次のように言い直してみます。

刺激Aグループ → 反応Bグループ

グループというレベルでは決定しているが
Bグループにバリエーションがある。
Aフループの構成要素は不可知なので、決定不可能。
(なんか無理がある言い方ですが)

話は変わりますが、
刺激Aがなくても反応Bが突如起きたりします。
神経生理学では自励発振といいます。
自励発振を心理学のレベルまで持ち上げると
「想起」になるかもしれません。
哲学的には「自由」の一部でしょう。
0170ルサンチマン伊藤NGNG
>>153
>>158
 決定論と言うのは,一つの説として(ホッブズが考えているだろうと私が考える仮説),
現在から過去を眺めたときの現在の出来事と過去の原因の因果関係を認めることからはじまり,
では未来から現在を眺めたときも,現在を原因として未来の結果もすでに因果関係によって決定されているはずだ,
という推測から成り立っています.153氏の指摘もこの辺と関連があると思います.
 蛇足としてもう一つ私が知っているのはスピノザの説で神(即自然)の証明から決定論を導く説です.
0171考える名無しさんNGNG
>>170
学者の名前を並べて逃げようとしてるね。
0172あちょーNGNG
>>168
> 目指しているという事と自然が決定論的な法則を持つと言う事は全然違う。

それはそうです。
0173134NGNG
>>171

そういう意地の悪い野次馬みたいな言い方は
止めましょうね。
0174ルサンチマン伊藤NGNG
>>165
確かにこのままでは決定論から逃れてしまいますな・・・。
しかし,AをA’として,またはAをA”として認識することを認めた上で,
さらに私がいつどこにいたかどのような状態だったかによって,
AをA’として,AをA”として認識する理由を求めることは出来ます.
このようにしたら決定論は保持されるはずです.
0175考える名無しさんNGNG
>>173
挑発したら応答があるかと思ったんですけど、たしかにお行儀わるでした。
すいません。
0176ルサンチマン伊藤NGNG
>>170
ごめんなー。ちょっと僕も自分の言動に苦しくなってきたんで.
0177考える名無しさんNGNG
>>174
条件が違うのだから同一刺激とは言えません。
それは結局一つの刺激には一つの認知しかないと言っているのと同じです。
0178134NGNG
タバコを一本吸っている間に
自分の言ったことの問題点にひとつ気が付いたので
書いておきます。

実際に根源原因A’ー>グループBのうちの結果B’という
ゆらぎのない関係性(決定された関係)あるということと
その関係性を観察者が判断できない、
関係性が不可知であるということは別の話であり、
私の議論はこの点をあいまいにしている。

ただし関係性が不可知であるならば、
事態は決定しているかもしれないし、
そうでないかもしれない。

0179考える名無しさんNGNG
>>178
そですね。
結局、決定論的なのかどうかはわからない。
どっちともとれる。
「因果」はわかりません。「相関の高さ」は統計でわかりますけど。

理論による予言がのちに証明され。。
ってパターンも、たまたまそうだったのかどうかは知りようがないし。
0180ルサンチマン伊藤NGNG
>>178
どうやら決定論について認識論と存在論がごちゃ混ぜになっているようだが。(私もその可能性あり・・・)
0181考える名無しさんNGNG
>>158 (>>134氏)

>今という時点で目の前に石がある。
>この石は2つに割れるかもしれないし、3つに割れるかもしれない。
>
>脳は物質から構成されている、他にはありえないと私は考えます。
>そこでこの石の比喩、割れ方の可能性が開かれている部分を自由と私は考えます。

決定論は、単純に「幾つかある可能性を前以て1つに絞り込んでおけ」と説くものではなくて、
「幾つかある可能性のうち、1つしか起こりえない」という経験に基づき、
「世界は1通りに決定されている」と主張するものだと思います。
つまり、>>134氏の考えは、決定論の中に包摂されても何ら支障はないですよ。

また、石の割れ方に「自由」を見出すのは、
カント的な(って言えるほどカント知らないが)「意志の(理論的)自由」からのアナロジーじゃないですか?
現代物理学の観点からは暗黙裡に、石の割れ方の可能性は、1つ以外は排除される方向にありますし、
確率に「自由」を求めるなら、その「自由」は「何の自由」なのかを言わなければなりません。
要は、確率のランダムな可能性のなかから、石の割れ方を決定したものはいったい何なのか、を言わなければなりません
(これは「意志の自由」からのアナロジーでなければ尚更追究されなきゃならんと思われる)。
0182考える名無しさんNGNG
「世界は1通りに決定されている」→「世界は1通りに決定されていく」
0183134NGNG
>180,181

存在論としてはやはり究極因子@原理サークルについてマジメに考えてみる
ということになるのだろうか。

しかしそうするとどうしても(繰り返しになりますが)
不可知であり、どうなのだかわからないです、
ということになる。

こうした不可知論(あるいは無限後退)
から逃れるためにミクローマクロの階層抜き出し論を
上で導入したつもりです。
感覚としては数学的帰納法にちかい。
関係性だけ抜き出してシステムを説明する、という点で。

ただし説明が上のようだと混乱している部分がある。

0184134NGNG
>181

石=意志という指摘がとてもブリリアントですが
さて、冗談抜きに

>確率に「自由」を求めるなら、
>その「自由」は「何の自由」なのかを言わなければなりません

これがたぶんポイントでしょう。
考えてみます。

0185134NGNG
>181

難しいので目下挫折しています。あらら。

「カント的な意志の(理論的)自由」
について知っている限りでいいですから説明お願いします。

今日はもう仕事しないといけないので、また。
ではでは。
0186ルサンチマン伊藤NGNG
>>162
>>163
>>164
134氏は「現象設定の解像度」を勘違いなされている.
私が言おうとしたのは,単に認識論の問題で,人間の認識のいいかげんさによって,人間に自由意志があると錯覚しているのではないか,と言うことです.(ただ私が143で「突き詰めて」と表現したのが誤謬の原因となっているのなら申し訳ない。)
さて,決定論と自由意志の問題は存在論で語るべきでしょう.「自由意志がある」と「自由を感じる」は分けて考えるべきです.
「自由意志」の不備については私が先ほどお答えしたとおりです.>>143.149.159.174参照
0187ルサンチマン伊藤NGNG
さて,そろそろ私も今日大学があるのでもう寝ます.おやすみ。
0188考える名無しさんNGNG
「自由意思があるかどうかはわからない」で決定。

人物1が条件AにおいてBという意思またはB’という意思を生じる事ができるのか、
それとも条件AにおいてBという意思を生じ、条件A’においてB’という意思を生じるのか知る手段はありません。

ただし、恣意的に「自由」とか「意思」の定義を操作する事で
むりやりどちらかへ決着する事は可能でしょう。
0189考える名無しさんNGNG
一元論と捉える限り個々の人間に完全なる自由意志はないだろうね。
二元論以上と捉えるなありそうだが。
個人的には人の意志なんて決定論的であってほしいと思う。
0190考える名無しさんNGNG
>>185

カント >>125

何の自由か、について。
(1)自然(石とそれをぶつけたものが中心)
(2)ぶつけた人(人じゃなくてもいいが)
(3)観測者(割れ方の可能性を考えた人)

(3)は論外。別に石が割れることに携わってない。
(2)は、この場合(1)の自然に含まれる。
割ることの一連の流れに携わっているだけ。
(1)によって決定されているなら、それは単なる決定論。

自由を委ねるものがないと思うが。

考えるなら意思の自由を考えた方が。
0191考える名無しさんNGNG
>>189
それってただ単に世界が決定されたものなら自由意思はないって言っているのと同じじゃないの?
用語を使えばいいってもんじゃないのよボウヤ。
0192ルサンチマン伊藤NGNG
>>188
>「自由意思があるかどうかはわからない」で決定
そんな簡単に終わらせたらつまらなくなっちゃう。
自由意志があると証明するのは、決定論であると証明するより分が悪いのです。
>人物1が条件AにおいてBという意思またはB’という意思を生じる事ができるのか
まず、BとB’が条件Aから生じることを証明しなければなりませんが、
このときAはよく似たA’でもA”でもないAであることを証明してはじめて自由意志を問う資格ができるのです。
例えるなら、宇宙に行ってもないのに「地球は青かった」なんて証言するのがおかしいようなものです。
0193メタリカ伊藤政則NGNG
名スレ。
0194考える名無しさんNGNG
自由意志なく、その場その場の脳の現象で将来に至るのか?
今日の晩御飯何食べようかは、自由に選んだように見えて実は脳に支配されている、
(例えば)脳が欲しがる養分を含んだ食べ物を自然に選ばされているレベルなら自由意志はないでもよいと思うよ。
でも、将来何をしたいか、どう生きて、どう死にたいかも脳に支配されているの?
魂はないの?あるっていったらだめなの?
脳は魂が操るコンピューターだ、っていったら神秘主義者だと馬鹿にする?だめ?
快楽、欲望を抑えて修行したりすることは自由意志の、魂の表れではないの?
断食とかさ。そんなことしたことないけどさ。

http://www.hpfree.com/utuutu/utun.htm
0195電波君NGNG
物理法則をつかさどる神(仮)にとって
自由意志などという概念すら存在しないでしょう。
その概念を理解できるのは人間だけです。
では人間の立場にたって見てみましょう。
存在します。なぜなら存在すると信じるからです。
0196134NGNG
グウグルで自由意志と決定論」
あるいは「自由意思と決定論」で検索してみました。

http://homepage1.nifty.com/manikana/logos/kakologos1.html#jiyuu
サッカーのアナロジー。

http://www.ethics.bun.kyoto-u.ac.jp/~sasaki/interest/diary/mukashi0202F.html
この人の結論は
「決定論が正しいか、自由意志論が正しいか、は人生の生き方問題である。そして、あなたが少しでも人生を主体的に生きたいと願うのならば、あなたにとって決定論は偽であるのである。 」
0197134NGNG
これはどちらかというと「自由意思と決定論」
の言説に対する立場ですが

http://kakikakijapan.com/what%20is%20history.html
EHカー「歴史とは何か」まとめ。
「まず歴史の研究は「なぜ」を問い続ける原因の研究であると強調する。
その上で原因を考える上での自由意志と決定論の問題、合理的原因と偶然的原因に触れ、
これらの判断は、説明の目的に関わり、目的は必然的に価値判断を含むため、
ここでも歴史の二重機能と呼んだ現象が起こるとする。」
0198134NGNG
さらにこれはもっとシニカル。
「議論継続のための「擬似問題」であって、最終的な解決は原理的にあり得ない。」
そうです。

http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/ESSAY/SYAKAI/6.html
「言説過程」

「… このような他者との関係は、問題の共同仮構と、議論の絶えざる継続によって
維持される。問題の共有とこれをめぐる果てしない議論にって形成される共同体、い
わば「議論共同体」が、探究する精神たちが相互の「理解」を通じて実践性への契機
を不断に自己の内部に繰り込む場なのである。
 ここで言う問題とは、たとえば「社会の自然状態」という仮構の設定を介して繰り
広げられる社会秩序形成の原形式をめぐる問題であり、あるいは「運命」という観念
の舞台上で展開される自由意志と決定論の相克をめぐる問題のことである。これらは
いずれも議論継続のための「擬似問題」であって、最終的な解決は原理的にあり得な
い。探究する精神たちはこれらの問題をめぐる議論を通じて、あらゆる事象に理解可
能性の刻印を刻みつけ関係性の管理を及ぼすことによって、科学法則に関する命題で
あれ社会現象に対する仮説であれ──あるいは伝説・民話・神話・スキャンダルであ
れ──なんらかの「説話」を共同制作し、「説話」自体を新たな問題としてとらえ直
し、さらなる議論の過程へと繰り入れるのである。そしてこの永久運動的な探究を通
じて、個々の精神は議論共同体の外部に論証不可能な、しかし確実に存在するものと
して高次の精神を見出し、そこから無尽蔵の力を自己の内部に汲み取るのである。」
0199134NGNG
とはいえ、歴史的に皆さん頭をなやませてきたわけで。

http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/ESSAY/TETUGAKU/4.html
霊性の学としての組織論
「 実在としての組織は生きている状態にあるかぎり部分の総和を超えており、そこ
に力を供出する人々に「言葉で説明できないような劇的、審美的な感情」(p.xxxiv)
を経験させる。バ−ナ−ドはそれを「組織感 the sense of organization」、 「共
同体意識 communal sense」(p.170)あるいは「全体感 the sense of the whole」
(p.235)と表現する。諸部分がその独自性を失わず全体との弁証法的対立を経て一つ
の実在のうちに融合しているとき、そこにはかつてレヴィ=ブリュルが未開人の原始
心性を説明するために提唱した「融即律 principe de participation」(3)に似た原
理が作用しているであろう。このような融合の最高段階において協働をめぐる自由意
思と決定論の相克はパラドキシカルな関係をとり結び、人々は神との合一を意味する
キリスト教カトリックの儀式である聖体拝領が象徴する「精神的結合 communion」の
状態へと移行するであろう(pp.295-6)。」
0200134NGNG
「議論継続のための「擬似問題」であって、最終的な解決は原理的にあり得ない。」

なんて断言されると、
まさにここの状況を指摘されているような気になります。

とはいえ、なぜ「原理的に無理」
なのか。

ひとつはどなたかがおっしゃたように
「自由は無に等しい」
というパラドックスでしょう。だとしたら意志はどこにあるのだ、
ということになるから。

原理的にはそうだけれど、再び私の問題を書いておきます。

決定されているけれどもなんとなく自由ではある。
(実感)
これを論理的に説明するにはどうしたらいいんだ??

というわけで昨日の課題はまだうちゃってあります。
0201ルサンチマンな名無しNGNG
>>194
決定論は脳に支配されているんじゃないよ。
もっとたち悪いことに「過去の出来事」に支配されているんだよ.
>魂はないの?あるっていったらだめなの?
>脳は魂が操るコンピューターだ、っていったら神秘主義者だと馬鹿にする?だめ?
>快楽、欲望を抑えて修行したりすることは自由意志の、魂の表れではないの?
たとえ決定論だとしても,自由を感じたりするのは確かだ。
認識論的には自由がある・自由を感じる,と言う事は否定できない。
しかし,今僕は存在論的に人間の自由意志を認めることは出来ない。自由意志論は論理が破たんしてるから。
自由意志の存在を整合的に論じて説得してみてください。
場合によっては宗旨変えするかも?

0202134NGNG
>186 ルサンチマン伊藤氏

「人間の認識が甘いために自分は自由であると勘違いしているのではないか。」

という点ですが、私は勘違いしていないつもりですが。
(って本人に勘違いしているって
いわれている手前買い言葉みたいですが、以下)

先日の考え方

グループA−>グループB

というあいまいな因果関係を許容すれば
「だから自由である」
ということになりませんか。

このあたりから181氏の問題を掘り下げることができればよいのだが。
0203ルサンチマン伊藤NGNG
>>200
134氏へ
あせらずに考えてみてください。まだ時間はありますから。
しかし,今日は今日のバイトのためにもう寝ます。おやすみzzz
0204134NGNG
>203

そうですね。

議論の土俵をカテゴリー化して整理するところからしたほうが
いいかもしれない。
「この立場だったらこうである」
という分類が可能なはずです。

0205ルサンチマン伊藤NGNG
>>201
134氏へ
寝ようと思ったけどレスがきたので返答します.
>「人間の認識が甘いために自分は自由であると勘違いしているのではないか。」
これは「人間の認識が甘いためにその人間自身が自由であると錯覚しているのではないか」と言う意味です.
>グループA−>グループB
>というあいまいな因果関係を許容すれば
>「だから自由である」
>ということになりませんか。
この意見は存在論的に論じているのでしょうか?
もしそうだとしたら,
A(A1∩A2∩A3・・・)→B(B1∩B2∩B3・・・)という式が成立するはずです.
これでも結局はA→B=(A1→B1.∩.A2→B2.∩.A3→B3・・・)という可能性を否定できないんです.
ただし,A1→B1とかのミクロな因果関係は不可知であるかもしれないが。
けれども,不可知だからといって因果関係は存在する。たとえ明日人間だけが滅んだとしても,氷が水になる現象は否定できないから.
したがって,ミクロの世界に目を向けたときの決定論は依然残ります.
さてそこで,181氏が述べておられた自由は認識論的な自由なんです.
たとえ決定論であっても,人間が自由を感じる,自由を信じることは別の話ですから.
このようにして決定論と自由は両立するのです.



0206ルサンチマン伊藤NGNG
134氏へ
タイミング悪かったね。
ゆっくり考えてといいながら返答してしまいました。
今度こそ寝るから。おやすみ〜。
0207134NGNG
>205
了解です。
とてもよい説明です。わかりました。

わかりましたというのは二重で、
私が何を説明したいのかもわかりかけてきた。

何度もルサンチマン伊藤氏が繰り返し指摘してくれたように、
私の議論は認識論と存在論があいまいなようになっている。
どちらかというと、認識論が存在論に浸潤している誤謬です。

しかし私が説明したいのは存在論として
あいまいな処理(グループ処理)
を考察することが必要なのではないか、という点なのです。
ここを攻めなくてはいけない。

0208134NGNG
自分向けでもあるのですが、
今思っているヒントを書いておきます。
今頭のなかで想像しているのは超分子構造です。
Proteomicsと最近では言ったりしますが。
このところの生物学は20年来分子生物学的に
蛋白質を網羅してきたけれども、その蛋白質の
機能からたとえば細胞の機能を直接説明できなかったりします。
あるいは同じ機能をもつ異種の蛋白質があったりする。
そこで、蛋白質個々をみつめるのではなく
いろいろな蛋白質が集合した状態(超分子構造)
を、その集合した状態そのままで扱わなくてはいけないのではないか、
と考えられ始めている。

ポイントは、超分子構造として考えないと
説明できない性質がある、という点です。

ここまで書いて今日は冷却。

ではでは。
0209134NGNG
もうひとつメモ。

グループとしてのみ立ち現れる性質(現象)は
グループの構成要素を前提としたときにも
無から現れた有であるといえる。
0210つんNGNG
難しい言葉は嫌いだ。やさしく論じよう。
で、決定論っていうのはなに?過去に人間が支配されていると言うこと?
過去の出来事が脳にインプットされていてその判断があたかも自分ですべてを決めているかのようになるってこと?
じゃあ僕は断食したことはない。明日からしようと思う。でする。
それは魂による肉体・脳(欲望)への反抗と僕は考える。魂を肯定しているから。
で、脳がすべてだとするなら、それは今までしたことのないことをしてみる時期になったと言う判断を脳が下したということになるのかな?
で、それがあたかも自由意志に感じてしまうと。
なんか変でない?明日から断食するかもしれないししないかもしれない。そんなもん自由意志じゃん。さじ加減じゃん。
でも葛藤はある。食べたいと思うし、何の意味もないからしないほうがいいとは考える。
心のという現象は魂と肉体からくる欲望との葛藤ではないのかと思うんですが。
人間には魂が宿っている。だから本能に対抗できる。本能のままに生きること、快楽に流される生き方をしていればそれは
肉体(脳)に魂が負けていると言うことでは?
魂の肯定をしたほうがいいのでは?科学的に考えすぎるあまりなんか見失ってるのでは?現在の哲学は。
プラトンがただしいのでは?
これが僕の考えです。
0211つんNGNG
こういう言葉で書くと馬鹿っぽいのかな。難しい言葉で何を言ってるのかわからないので誰かやさしい言葉で
自由意志・魂を否定してくれたらうれしいです。面白そうだから。
0212つんNGNG
プラトンは魂の優劣をつけましたよね。よりよい魂はこの世にないものを求めると。
イデアの記憶が多く残った魂か。それによっていろんな生き方があると。
魂があるからこそ人間は愛だとか友情だとかにこだわってしまうんではないかと思うんだけど。
どうですか?プラトンのイデア論とかは。古い?(笑)
0213134NGNG
>210
他人の言葉はむずかしいですよね。
まあ、だから自分の言葉で考えて納得しようとするわけで
私もさんざん自分流の言葉でいろいろ書いているわけです。

つんさんもだから自分のことばで説明しようとすればいいわけです。

>211で、誰かやさしい言葉で魂を否定して欲しい、と書いていますが、
もっとも簡単に納得する方法は自分で考えて自分なりに納得すること
だと思います。言葉はなんであれ、論理的だったらよい。

ただ考えるのには一人で考えるより
だれかがいたほうがいい。他人に説明しようとしているうちに
自分が説明され始めるのです。
0214134NGNG
>210
意志は自由か、決定されているかという問題はどうやら歴史的に何度も
繰り返されてきた議論です。しかし最後にはいつも
結論はでない、という話になってきた。
だからこのことを考えるのは無駄だ、という考え方もある。

しかし、それは誰か他の(過去の)人間の結論であって
私やあなたの結論ではないのです。
同じ結論に至るとは限らない。

さて、そんなわけでこんな質問をします。
ちなみに「だってそうじゃん」ではダメです。

>210では肉体と魂が敵対するものとして書かれています。
なぜ肉体と魂を分けて考えるのでしょうか。
魂は肉体の一部である、とはいえませんか。
0215考える名無しさんNGNG
>>191はアレだが>>189の通り一元論か二元論かの問題は重要ではないかな?
0216考える名無しさんNGNG
>>215
なぜどうしてどのようにそう思うのかを書かずにそんなつぶやきだけ書くと、
実は一元論も二元論も知らないのでは?とか思っちゃうぞ。
>>215=>>189?プッ。からかわれた意味がわかったらちゃんと意見せよ。
0217考える名無しさんNGNG
(占いを好む人が多いという事は、決定論が好きな人って多いのかな。)
0218つんNGNG
自分の頭で考えて納得した結論が魂が脳みそ(肉体)とは別次元のものなんじゃ?っていう二元論(?)なんですよね。
でもそんなこといったらただの神秘主義者なんでしょ?現在では。
だから現存の哲学好きたちに魂なんて肉体なしには存在しないっていう意見をわかりやすく証明して欲しいんですよね。
どうして魂がないと言いきれるのか。科学は何を証明したのか。できてないんじゃないのか?と。
簡単な心の現象だけだったら脳みそだけでも納得できるんです。
でも自由意志とか、自分の生き方を思考するとき、魂が別次元にあるんじゃ?とか思ってしまうわけです。
みなさんはすべて脳が起こす現象だ自由意志など思い込みだと思ってるんですか?所詮肉体の快楽、脳が満足いくように動かされていると?
性欲を考えるとたまにそんなことも思うけど。
どうなんでしょうか。魂持ち出したほうがいろいろ納得できるんですけど。
0219礙礙礙NGNG
脳でもなんでも良いけど、決定論的機械上には「決定論」を
直接表象し得ない。「可能性」を直接表象できないからだ。

したがって、思考が決定論的基盤を持つという前提は、思考
が非決定論的に振舞う可能性としての自由意思の一面を、否
定できない。

この矛盾を回避するのに、二つの処方が考えられる。

1:各表象の同一性を前提としない
2:自己言及を禁止する

後者の処方は、恣意的な二元論の入り込む余地を残すので、
私は前者を支持する。
0220つんNGNG
うーんむずい。辞書持ち出さないとよめん。どなたか自由意志に関するお勧めの本教えてください。
こども時代を考えるとやはり魂は肉体、脳の成長からくるものなのかな。
うーんわからん。
昔の哲学者はなぜ魂を持ち出したのですか?科学が発達してなかったから?
0221考える名無しさんNGNG
>>218=>>215=>>189?
「『心身二元論』を支持する自分としては、心・意思は肉体から独立しており
 たとえ肉体が決定論的に動作しようとも意思は自由でありえると思う。
 心身二元論を支持する理由は自分なりに考えたつもりだけど
 理屈じゃ説明できません。ドンと辛苦。フィーる!!」
と言いたかったわけか。はいはい。
そう聞いてみるとたしかに>>191のコメントは間違えたよ。すまん。
思っていたよりもっとアホ草い。

ついでに私もフィーリングで話してしまうと、
魂っていうのは根本的な性質であって表面的な心理的現象とは違うと思うのだが。
子供のときも今も根本的なキャラってあまり変わらない気がするんだが、
そういう自分らしさを生み出している根本みたいなものを
魂と呼びたい。
だから肉体とともに成長ってのは違和感を覚える。
心は成長するだろうけどね。
えーとつまり肉体のゲノムに対応するものとして
精神の魂を考えるという具合。
ドンと新句!ふぃーる!
しかし基本的な思考パターンっていうのもやはり、幼時から
徐々に作られていくものなのかな。
0222考える名無しさんNGNG
>>220

Th.ホッブズ『自由と必然』
I.カント『純粋理性批判』
H-L.ベルクソン『時間と自由』
中島義道『時間と自由』
植村恒一郎『時間の本性』
0223考える名無しさんNGNG
存在論的自由と認識論的自由の違いが解らないのですが、
とりあえず「意志が自由たりえること」と「意志が自由だと感じること」の相違について。

物理学や実証的心理学など(の大部分)のように、決定論の立場からすれば、
意志の自由は、人間がそう感じているに過ぎないものとなります。

私は、意志の自由は、人間が内側からの視点をもつ限り、必ずあるものだと考えます。
ここで「内側」は肉体的な比喩であって、別に身体に魂が入っているとか考えてるのではありません。
「行為の主体となるような意志を持つ限り」ということになりますが、
これは「意志を持つその人が行為の主体になる限り」ということを指すわけではありません。
結果的に同じことだとしても、まず初めから混同してはいけないと思います。
「意志の自由」から「行為」までは飛躍があるからです(ただしこの主張において、ってことになるけどね。下の段落参照)。
混同すれば、話は早いわけで、ホッブズの言い分どおりになります。

意志の自由は、人間が内側からの視点をもつ限り、必ずあるものだ、ということを言い換えると、
人間が「我」(と呼ぼうとしている)である限り、アプリオリなものである、ということです。
で、意志の自由は、時間性はないと考えます。
例えば、歌うという行為を考えてみると、歌うそのときに意志の自由が成り立っている、
つまり、歌うそのときに無条件で自由意志の因果関係が成り立っています。
「歌うそのとき」に時間の厚みがあるかどうかは関係ありません。
私たちが「歌うという行為が自由だ」というようなとき、
その意志の自由を考えると、このようなのがいちばん実感に近いように思いますが。
ただし、行為自体は、時間の流れに沿い、また(脳を含めた)身体内部の諸反応は決定論的です。
このように考えると「意志の自由」から「行為」までは飛躍があることになります。

時間性がないことに懐疑的に思う人がおるかもしれませんが、私たちは時間を意識しすぎだと思います。
だから「意志の自由は、人間がそう感じているに『過ぎない』」とか、
「意志の自由は『錯覚』である」というような言明が出てくるのではないでしょうか。
そのような否定的な言明の内容は誤ってはいないと思いますが、それを否定的に捉えることは、
時間とか、自然科学的な経験的な因果関係の偏重であると思いますが。
確かに時間は大事ですけど、それにのめり込んだばかりに起こったのが、飛ぶ矢のパラドクスじゃないでしょうか
(時間の意識しすぎの例であって、自由意志の問題とは特に関係はないです)。
ある瞬間において矢は静止しているから、時間を通して飛べないということですが、ある瞬間における矢の静止はありえません。
瞬間においては動も静もないですから。
つまり、時間性のないケースに、時間性のあるケースと同じ態度で臨んでるのがヘン。
自由意志の問題でも、同様の誤謬のせいで、自由意志が錯覚に貶められたり、
決定論と同格で張り合えばいいのに、決定論の余地でしか成立させてもらえなかったり。
0224考える名無しさんNGNG
「我」(と呼ぼうとしている)→「我」(と呼ぼうとしているもの)
0225つんNGNG
その根本的な性質である魂が肉体に宿ってるって考えたほうがしっくりいくから二元論支持なのかな。
肉体とは別次元のものがあるような気が。幽霊とかにつながっちゃうんだろうけど。
その189とかは僕じゃないですよ?
222さんどうもです。その辺の本が難しくないことを祈ります。せっかちだから一回で理解できないといらいらして(笑)
0226223NGNG
>このように考えると「意志の自由」から「行為」までは飛躍があることになります。

補足すると、意志の自由→行為の関係と、決定論的な行為の因果関係は、時間に沿っては同時に捉えられず、
ホッブズは上述の混同によって、意志の自由の方を、時間に沿う流れにキレイに押し込んでいるように見えます(かなり検討不足だが)。
0227つんNGNG
いい女を目の前にしてHしたいと思った。
これくらいなら意思なんて脳が生み出した現象だって思えるんだけど。
そんな単純な生き物でないからなぁ。
でもそんなことしか考えてない人もいるわけで(悪いとはいわないけど)それは馬鹿とかよりやっぱ
魂のイデアの記憶が薄いとかそういうほうが自分では納得できたわけで(プラトンです)
魂が外側からやってきて肉体に宿っているわけではないならどうして魂というか
その我?主体はどこからきてどこにあるんですか?やっぱ脳ってなるの?
脳は思ってるよりすごいんだと。まるで脳(欲)と意思(魂)が別次元にあるように感じさせるほど
すごいという意見なのかな?
とりあえず本読んでみます。どうもでした。
0228考える名無しさんNGNG
哲学ロボットの群れ。
0229ルサンチマン伊藤NGNG
>したがって、思考が決定論的基盤を持つという前提は、思考
>が非決定論的に振舞う可能性としての自由意思の一面を、否
>定できない。

確かにそのとおりです。たとえるなら,私は自分の中に流れている血液の流れ,胃の運動,脳の刺激と反応を感じることは出来ない。

>1:各表象の同一性を前提としない
これについてはもう少し説明をお願いします。

>>221
>魂っていうのは根本的な性質であって表面的な心理的現象とは違うと思うのだが。
>子供のときも今も根本的なキャラってあまり変わらない気がするんだが、
>そういう自分らしさを生み出している根本みたいなものを
>魂と呼びたい。
魂はその人自身の本質を表す,という説を取るのですか。肉体のゲノムに対応した精神の魂。
しかしこれだと精神の神秘性がなくなり,心身二元論の意味がなくなります。

>>223
ホッブズの「意志」というのは次のような意味なのです.
「熟慮」において,直接に行為あるいは行為の回避につながる最終的な欲求あるいは嫌悪を,私たちは「意志」と呼ぶ。
つまり、店に行ってメニューにカレーと親子丼があった。
そこでカレーと親子丼のどちらにしようか考える。
カレーがいいな,いや親子丼も捨てがたい,でも,カレーの匂いがしてきたからカレーにしようか,いやでも隣で食ってる人の親子丼もうまそうだ。
このようにカレーと親子丼の間で「熟慮」するわけだ。
「意志」と言うのはその熟慮の最後の瞬間で,店の親父に「カレー一つ」と頼む(行為する)直前の最終的な熟慮の状態(このときはカレー)を指すに過ぎない。
ホッブズにとって「意志」に特権性はない。

それと,ホッブズの「熟慮」と「意志」が時間性にとらわれるかどうか,というのは重要な問題です。
しかし少なくともホッブズは「熟慮」と「意志」が時間性にとらわれることを明言していない。
この辺は研究の余地があるでしょう。
0230ルサンチマン伊藤NGNG
>>229補足
最初は礙礙礙氏(>>219)へのコメントね
0231考える名無しさんNGNG
>>229
>ホッブズ
なるほど。ちょっと考えてみます。
0232礙礙礙NGNG
>>229

思考機械の状態・状態遷移と、思考過程とのあいだを結ぶ関係を、アプリオ
リとしない。

ということです。例としては、再認とその脳内表象との関係、アナロジーと
しては紙幣の機能とその物理的構成基盤との関係を想像していただけると、
解かり易いと思います。
0233礙礙礙NGNG
確認したい点がひとつあります。

このスレ上、つまり自由意思を論ずる文脈で「決定論」というとき、
原理的決定性のみならず原理的非決定性をも含む
としてよろしいでしょうか?

読み落としていたらごめんなさい。
0234考える名無しさんNGNG
人間は、あらゆる状況に突き動かされていると思う。(と思う。以下省略)
あらゆる能動(と思い込んでいるもの)は根本的な受動に動かされている。

例えば、ここにケーキがある。貴方ならどうするか。
もし食べるなら、それは自由意志で選んだ(つもり)だろうが、
ケーキが好きな場合、満腹でない場合(満腹でも別腹ってのは置いといて)、
品質保持期限が切れていない、などの
あらゆる「状況」に(深層的に)突き動かされた筈である。
もし食べないを選択した場合はその逆である。

コギト・エルゴ・スム(我思う、故に我在り)の(デカルトの)言葉すら、
考える事象がある。疑問に思った(その事象があったから)。
という状況に動かされて「考えた」のである。

時に考える「状況」、時に選択を求められる「状況」、時に発言する「状況」
あらゆる事象にあらゆる原因がある。
原因の無い出来事はないのである。
それは人間の行動一つとってもそうである。
自由とは元々存在しない物である。
0235考える名無しさんNGNG
>>234
ホッブズへの反論にもカントへの反論にもなってないし、
cogito ergo sumを誤解してもいる、と思うのだが……
0236234NGNG
すいません。
どっちにも反論したつもりはありません。
0237考える名無しさんNGNG
スピノザ、ゲーテなんかは一元論的汎神論になるのかな?
仏教の無我に似ている。
ウィトゲンシュタインなんかの無主体論なんかも同じようなものか。
0238ルサンチマン伊藤NGNG
>>233
存在論的に自由意志を認めるなら,原理的非決定性を認めなければならない。
逆に存在論的に決定論ならば原理的決定性を認めなければならない。

それはさておき,存在論的な自由意志をどのように正当化するか,ということだが,
可能世界を用いたらどうだろうか。ライプニッツの可能世界論をわかりやすく説明してくれる人大募集。
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