>>86メモレポします。
1760年前後、清朝の侵攻から抵抗運動は続いてきた。
1933年、カシュガルを首都として建国されたが、特にソ連の軍事介入で潰される
ウ指揮官マフムト氏がインド亡命、来日し話し合いや協定もあったと言われる
1949年〜戦勝国間の取り引きで中国の手に渡り占領され、
2人の指導者が数千人規模を徒歩やロバで数ヶ月かけインドへエクソダス。
しかし長く居られずトルコと交渉し、
'52〜'55年、トルコが飛行機を出して亡命者をトルコに運ぶ。
蒋介石から共闘の誘いもあったが「まず独立を認めてくれ」と言うと応じて貰えなかった。
トルコを中心に運動していたが、マフムト氏死去。
'62頃、ウイグルに残ってた主だった人々もキルギスやカザフに亡命。
ソ連は中国と仲悪い時だけは運動を許してくれた時期もあった。
経済・人材不足で苦しい中、世界に(日本にも)訴え続け、
'90 ソ連崩壊が、全世界のウイグル人に希望を与え、運動は活発化した。
カザフ、キルギス、ウズベクに移っていた難民は100万〜150万と思われるが、
ソ連より独立して出入りが自由になり、国内実情や国外運動情報が通じるようになる
'92 イスタンブールで初めての全世界のウイグル組織関係者の大会開催。
'95 カザフで全世界のウイグルの若者が集まり大会開催。
'96 第2回の集いがミュンヘンで開催され、世界ウイグル青年会議発足。
'99 ミュンヘンで東トルキスタン民族会議が発足。もう一人の指導者死去。
運動の中心がトルコからドイツへ移る。
中国は40年間のリーダーが亡くなって運動も終わると思っていたが、
2つの組織はより強固な運動を展開する。
'03 中国は運動が欧州に拡大・国際問題児されるのを恐れ新たな行動に出る。
世界ウイグル青年会議をテロ組織として11人のメンバーをテロリストと発表、
独政府に組織解散と身柄引き渡しを要求した。
独政府は何ら違法性のない民間団体として応じず要求を拒否。
'04 この2つの組織を中心として世界ウイグル会議が出来た。
本部は独、ラビアさんは米、欧州議会や国連等様々な組織に働きかけている。
09年11月には欧州議会で、ウイグル・チベット問題の重要決議案が、
726名中、反対1名、棄権10名、賛成715名で採択された。
〜続く〜