くどいようだが、またコーウ゛について。
もし、ある映画プロジェクトとして、在日朝鮮人の様々な(反日)活動
を追った映画を作ったとする。
朝鮮学校内の主体思想の教育模様を盗撮したり、労働強制連行説や
慰安婦強制連行説などを「真面目」に訴えている在日「市民」団体に
対して喧嘩腰で突撃取材したり、するなど、そういう内容の映画だったとする。
そして、戦前の朝鮮(人)の歴史事実はこうだった、として、彼らの主張
に逐次反論するような内容を散りばめたものだったとする。

さて、今回の件で「表現の自由を守れ」と抗議しているマスコミや(サヨク、在日等の)
言論人らは、こういう映画に対しても、今回と同じような抗議の声を挙げるだろうか?
そんなことは「もし」の話だから誰にも断言なんかできる訳がないので、ここから下は
あくまでも仮説になることを断っておく。

俺は個人的に確信している。「絶対に彼らはしない」と。
彼らは、逆に「とんでもない人権無視の許せない差別的な映画であり、
著しく歴史的事実を捻じ曲げた映画だ。上映中止は当然」という声を挙げる
だろうと確信する。
(事実、映画プライドの時、左翼から上映中止の抗議が挙がったが、今回「表現の自由を
守れ」と抗議している連中はあの時何らかの声を挙げた奴が一人でもいるだろうか?しか
も、コーウ゛の場合、ドキュメンタリーを謳っている分罪が重い)
そうした場合、今回のコーウ゛の問題と攻守(主客)が逆転しているだけで、
主張が全く同じということになる。
主権らの主張は、あの映画に対し、「日本人差別だ」としている訳だ。

何を言いたいのかと言うと、「表現の自由」という政治学上、自由主義国家の中では、
相当に上位にあるとされる権利が、党派性やイデオロギーによって、その有り様が
真逆に扱われるということだ。
本来、表現の自由や言論の自由は、イデオロギーを超えたところに在る権利のはずなのに。

俺は、コーウ゛は映画として最低の映画だと思っている。
しかし、表現の自由は認めるべきだと思う。その意味において、コーウ゛の上映は認められる
べきだと考えるが、ただし、表現の自由のような精神的自由権も、他の権利との関係によって
調整されるものであり、あの映画は太地町住民の人格権(肖像権含む)を著しく侵害している
と判断できる。まあ、結局、裁判所しか、この問題は判断できない問題だけどさ。

いずれにせよ、俺は、その意味において、上映されるべき映画ではないと思う。
裁判所の命令云々の前に、まともな言論人なら、あんな映画は認められないでしょ。
だから、あの映画の表現の自由を認めろと騒いでいる連中は、単に反日イデオロギーに汚染
されている連中だとしか思えない。