4 連行場所での生活状況

 「慰安所」は日本人夫婦の男が管理しており、この男の額に
大きな瘤が一つあり兵隊ではなく、原告盧らはこの男を「ガン
リュウー(柑瘤)」「ボス」と呼んでいた。

 「慰安所」内には三〇人余りの女性がいて、一人一部屋ずつ
押し込まれた。

 台湾人が殆どで日本人もいたが、互いの付き合いはなかった。

 原告盧は仕事というのが性的行為であることは小部屋に入れ
られたことでわかった。わかったところで泣くだけで、それを
断っても逃げて行くところもなかった。それでも当初抵抗した
が無駄だった。

 それは、いきなり札を持った兵隊に来られて始まったが、と
ても恐ろしかったが、ひたすら我慢した。

 日本人の夫婦の男性(原告盧らはボスと呼んだ)が厚紙でで
きた「札」を兵隊に売って兵隊は札を持って原告盧らのところ
へ来た。原告盧に話をする者も一〇人に一人くらいいたが、多
くは何も言わずに強姦して行くだけだった。朝八時ころから昼
も夜も軍人が来て、軍人の中には朝まで泊まっていく者もおり、
断ることはできない。相手は将校、兵隊の軍人で、すべて日本
人で車に乗って来る者が多かった。

 付近には「慰安所」はほかになく『ケイナンショウ「慰安所」』
『ホンサ「慰安所」』という名称で呼ばれて看板は「慰安所」
となっていた。

 札をいらないと言ってビンタされた人もいたが、原告盧は一
年か一年半の我慢と思いひたすらおとなしくしていたので乱暴
されたことはない。

 海南島で、「サック」を使ってはいたが原告盧は妊娠した。
すぐに家に帰りたいと言ったが、妊娠八ヶ月まで客を取るよう
強制された。

 檎林には海軍病院があって、医者が何人かいて原告盧らは一
週間に一回検査につれて行かれて病気があれば休みになった。
生理の日は休みがとれることもあった。檎林港に検査のとき買
い物に行ったりしたがそれ以上の自由はない。

5 帰郷

 一九四四年、原告廬が一八歳で妊娠八ヶ月を過ぎた時、医者が
証明書を書いてくれて台湾に帰る事が許された。お腹が大きくな
って利用価値がなくなるまで利用された。また当時原告盧はマラ
リアにかかっていた。