一方、普段から政治に興味の高い人への説得をした場合の反応は、たいていは「理解」or「反論」です。
これは物事の本質をそれなりに論理的に考えることが出来る状態(洗脳されていない状態)であるから生じる反応です。
もちろん考え方は人それぞれですから意見が食い違うこともあります。だから「反論」もあり、
そこから対話を通じて「理解」へと至るのです。「理解」へと至らない場合もありますが、それもまた良しです。
何故なら、この食い違いを認識して対話を通じてその間で歩み寄れる部分や歩み寄れない部分を見極めていく作業が
真の意味での知的快感というものだからです。これは他人を洗脳して得る快感などよりも大きな快楽であるはずなのです。
ソクラテスが唱えた「無知の知」というもので、自分は真理を知らないということを知っているので
他人の意見に耳を傾けることが出来て、結果的に真理に近づいていくことが出来るのです。真理の探究こそ最高の知的快楽です。

しかし、こういう快楽を理解出来ずに拒絶する人もいます。対話に価値を見出さないのです。
自分は真理を知っていると盲信するがゆえに他人の意見に耳を傾けられないのです。だから対話というものが出来ない。
そういう人というのは実は自身が洗脳されている人間であることを潜在的に自覚しているので
論理的な「反論」を受けることによって、自分の主張が突き崩されて、
単なる被洗脳者としての自分の姿が露わになることを恐れているのです。つまり自信が無い。
だからそういう人は「反論」をしてくる可能性の無い相手、つまり政治に興味の無さそうな人間を選んで説得しようとします。
「そういう層を変えなきゃいけない」「まず身内から」などともっともらしいことを言いますが
実際に効果という意味では政治に興味ある層を狙うのがベストであるのは論理的にすぐ分かるはずのことなので
そうした判断を意識的にせよ無意識的にせよ避けているというのは、怪しいことだと思わなければいけません。