>>278
ん?いや、かつては結構接触していた

これは話は遡るんだが、
79年に�ケ小平はギャロ・トゥンドゥップ(法王の実兄)を招いて、
「完全な独立は許されないが、他のすべての問題は、話し合いに応ずる」「ダライ・ラマの帰国を歓迎する」と話し、
これを受けて胡耀邦は更に踏み込んで、中国共産党のチベット政策を「極左偏向である」と自己批判。
翌年の80年から実際に法王帰還の実務手続きが始まり、亡命政府の代表団はチベット入りした。

�ケ小平には、「チベット人は共産党が実施した一連の近代化政策(土地改革・農奴解放)によって、
かつてのようなダライ・ラマ崇拝は無くなっている」という考えがあって、今更法王が帰還しても問題は無いと判断していた。
ところが実際に代表団がチベット入りし、まず甘粛と青海のチベット自治州にやって来ると、
何千何万というチベット人たちが彼らを出迎えにやって来て大歓迎した。
これは�ケ小平の予想を遥かに超えていたようで、彼は相当焦ってチベット自治区の党責任者に
「甘粛と青海ではこういう状況であったがそちらではどうか?(ラサでは)事態を抑えきれるか?」と、打電しまくった。
チベット自治区の党責任者は「抑える自信がある」と返したが、実際に代表団がラサ入りすると自治区中が沸き立ち、
チベット人たちは拝謁に来るだけではなく、自分たちの苦境を次々に訴えてきたという。

この事態は、�ケ小平や共産党のみならず、多くの人の予想を超えていたと思う。
長期間、大規模な「改革」を経ても、チベット人のダライ・ラマ法王への崇敬の念は消えなかった。
しかしこれは、中国共産党の政策・・・さらには共産主義というもの自体の、正当性をも揺るがす事態でもある訳。
ここから�ケ小平の態度は急に硬化し始める。
一方、胡耀邦はチベットに現地視察に赴き、これに基づいて税金免除や漢民族のチベットからの帰還などの一連の開放政策を実施し始めた。
この頃から�ケ小平と胡耀邦の間にはズレが出始める。

この協議が最終的にどういう顛末を迎えたかについて、現在伝えられているのは、
中国側はダライ・ラマ法王のラサ帰還を見送る代わりに北京の全人代副委員長のポストを提示したとされ、
これに対して法王は北京ではなくラサへの帰還でなければ意味がないと答えて決裂したとされる。
そして、天安門事件による胡耀邦失脚によって彼のチベット開放政策は誤ちとされてしまい、現在に至った・・・。

これが手持ちで調べた大筋の経緯
背景はすごく根が深い