菅原道真は平安朝前期の人で、5歳にして和歌を詠み、12歳で漢詩をものした神童であったという。
当時は藤原氏一族の全盛期で、藤原氏以外は出世できないといわれる中にあって、
その学才があまりにも優れていたために、宇多天皇の厚い信任を得て、醍醐天皇の時に右大臣にまで昇進した。
弘法大師、小野道風とともに書道の三聖ともいわれる人である。
また、遣唐使の廃止を献策し、国風文化の道を開いた人でもある。
しかし、左大臣・藤原時平の讒言により、901年大宰府権帥に左遷配流されてしまい、903年悲嘆のうちに没した。
ところが配流地で寂しく死んだ菅原道真のことが時の貴紳たちの頭から離れず、
死後四十数年後にして、多くの神官や僧侶、男女の夢枕に道真が立ったという。
当時、都では疫病が流行し、落雷や火災が相次いでいたため、これは道真の怨霊の祟りであろうと恐れられた。
このようにして、しだいに道真の怨霊を恐れる風潮が高まり、ついに時の天皇の御心を動かし、
勅旨をもって京都の北野にあった天神祠の傍らに霊廟を建て、北野大自在天または大政威徳天と呼んでその霊を慰めたという。
このように流刑にあって没した貴族の怨霊を祀る信仰を御霊信仰というが、この御霊信仰をもつ天神と雷神信仰をあわせ持っていた北野天神に、
道真の怨霊を鎮める信仰が結びつき、北野天神を一名、火雷天神ともいうようになったのである。
天神様というと、菅原道真公が祭神の天満宮の尊称と考えられがちだが、菅原道真すなわち天満天神を祀るのはもともと天満宮であって
その始まりはこのように天神とは別であった。
現在では天神様と天満宮は同一視されるが、もともとは別のもので、天神は天津神で、高天原に生成誕生した神を指す。
以上のように古代信仰の天神と道真の天満宮とが結びついたものが全国津々浦々の天神社に広がっていき、
本来の天神信仰は薄れていき、道真の天満宮という名称に変わっていった。
やがて北野天神社の天満宮となり、統一化されていった。
つまり天神社は天満宮に庇を貸して母屋をとられてしまったといえよう。
道真が失意のうちに没した大宰府にも大宰府天満宮が祀られた。
北野天満宮と大宰府天満宮はともに旧官幣中社で、学問の神様として信仰されている。
臣下で別格官幣社の祭神でないのは菅原道真だけである。


平成の菅原道真が今まさに大宰府で求められています。
来たれ!現代の菅公!