私たちは、時間幅のない時刻に設定される「速度」を「瞬間速度」などと呼んで、あたかも
実質的に存在する何ものかであるかのように考えているが、かつては、この概念を「速さ」
もしくは「速度」と呼ぶことはできないと考えられ、「速度の度合い」などという判ったような
判らないような名前で呼んでいた。ガリレオの時代でもそうであった。

私たちは、微分という算法を使ってこの難関を切り抜ける。小さな「時間幅」――それを
Δtと置く――を設定し、その間は「速さ」が変わらないものとする。僅かでも時間幅が
与えられれば、その間に動いた距離も算定できるから、「速さ」も意味を持つことができる。
こうしておいて、そのΔtを次第にゼロに近づける。この、ゼロではないが、しかし無限に
ゼロに「近づける」という操作 (考えてみると、見事な三百代言流のペテンとしか言いようが
ない) を主張することこそが微分のみそであり、そこから「瞬間速度」という概念が可能に
なる。

中学校では微分のこのトリックが使えないので、仕方なく言葉の魔術で切り抜けるのが
常道である。今この瞬間の速さで一時間動くと六〇キロになるとき、その瞬間の速さを
「時速六〇キロという速度」であった、と表現するのだ、というのがその説明である。まと
もに考えると、これは実はひどい言い抜けでしかない。

(村上陽一郎、科学哲学の窓:時間を巡って、『図書』1999年2月号、34-35頁より)

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