>>597
> 1、2、3、...という自然数も非常に抽象的なもの。
> リンゴが3個あるのも椅子が3脚あるのも同じ3と認識すること。
> これはかなり抽象的な認識である。

同意

> これを具体的と思うのは慣れているからに過ぎない。

それは慣れじゃない。日本語の話者にとっては抽象的な数の認識は困難なんだよ。
少なくとも英語とかフランス語とかの話者と比べて。

日本人の大多数が抽象的な思考において欧米人に劣る原因は実は上のKummerさんの文章に答えがあるというのが俺の考え。
(Kummerさん自身は劣ってないと思っているけどね)

マトモな日本語では「リンゴが3ある」とか「椅子が3ある」とは絶対に言わない。
必ず数える対象のジャンルに応じて「個」とか「匹」とか「羽」とか「脚」とかを付ける。

つまり、マトモな日本語を常に使っている限り、椅子は3「脚」であって3「個」でも3「匹」でもないし、
3脚の椅子と3個のリンゴなんて足す事は不可能というか間違いなのだ。だって「脚」と「個」が違うからね。
3個のリンゴと合わせて勘定できるのは同じ「個」を使える例えばミカンとか品物とかに限定される。

つまりマトモな日本語を常に使用している事は即ち、抽象的な数という認識をしない訓練を常に行っているに等しい。
言葉を覚えて以来、ずっとそんな抽象的な認識をしない訓練を日本語を通してやっていたら
そりゃ本来の生物学的な意味での脳の潜在能力が日本人と欧米人で同じだったとしても、
成長を経て成人になるまでに最終的に作り上げられる神経細胞ネットワークで構成される大脳は
抽象的な思考を排除する、あるいはそこまで言わなくとも抽象的思考に耐えられないものになってしまって当然だ。

だから日本人は抽象的な思考が苦手だし、一般化や普遍的なルールを考え出してそれに従って行動するのも苦手なのだ。
常に個別具体な事柄に対応する形でしか行動できないという日本民族の根本的な欠陥の原因は、正にここにある。
「日本語を捨てますか?、世界で孤立して絶滅しますか?」、これが経済・資源・食糧などの相互依存を通して否応なく国際化が進み
世界の中での国家間や民族間の生存競争が激化する現代に於いて、日本人に突き付けられた究極の選択。