>>364
ホントだ。上げてる。私はホントにうっかりものですね。やれやれ…
すみません。自覚はないのですが、私はあなたの話は理解できてないのかもしれません。ホントにすみません。

しかしながら「公理を勝手にきめてよい」というだけでは、(注1)
1、「ピタゴラスの定理を正しいと仮定すると、ピタゴラスの定理は正しいことが導かれる」 という証明と、
2、「普通の数学的なピタゴラスの定理の証明」とが、
対等であるかのように扱われるので気に入らないのです。

気に入らない、とは感覚的・直感的な発言ですが、あなたも>>335では感覚的に答えを出しております。

そもそも皆さんは論理をどう見てるのですか? 単なる置物やおもちゃのようなものだと見ますか?
それとも役に立つ道具だ、と見ていますか? 私は「論理は役に立つ道具だ」として考えてます。

論理は、公理が何かよって結論が決まります。
道具としてみるなら、結論がどうでもいいはずはありません。
ところが「公理や前提は勝手に決めてよい」ではおかしくないですか?

論理それ自体にとっては、確かに価値ある公理・ない公理の区別はないでしょう。
しかしこの世があって、考える人がいて、何かを判断したり説明したりする必要にさしせまられ、
その時の一つの道具として、論理があるはずです。(注2)

たとえ話をすれば、電卓は基本的に打ち込んでいい数字・悪い数字などありません。
ですが計算する道具として使う時には打ち込むべき数字というのが出てきます。
円周を測るとき、3.14と、2.18では価値は対等ですか? もちろん違いますよ。

今までも、これと意味の同じ話は何度もしているはずですが…
(注1 「公理は勝手に決めてよい」は認めます。でもそれだけでは十分ではない、と私は考えます)
(注2 それが存在理由とは限りませんが、そういう使われ方はするはずです)

PS,でももし、この話に賛同者がいなかったら自分が間違ってたというしかないです…
    論理は議論の道具、ひとりよがりの考えほど無意味なものはないので。