http://monochro.exblog.jp/12723955/
 -t∫inhwa者としては、「高貴な忘却術」を探求したい。
 非博メが必要とする「強い物語」が、
"自分にも必要である"と錯覚していたとき、どれほど苦しんだろうか。
 博メとしては、しかし、そうした「過去に対する反省」は、一切無い。
 端的に、教訓としての過去、参照先としての過去、が存在するのみだ。
 非博メは、様々な意味での「物語」を欲しているらしい。
 文学など、その最たるものではなかろうか。
 そんな「物語」など全く不要な者が、
"自分にもそれが必要である"と錯覚することの不幸は、大きい。
 本当は、そうした「物語」を排除していくことが必要であり、
そうした排除をこそ幸せと感じる者にとって、本当に大きな不幸だ。
 ニーチェ的まじめさにたとえうるような「最強の物語」なら、まあ許せる。
 「遠さへの志向」を満たしてくれる"物語"、
凡百の「強い物語」を一挙に粉砕してくれるような類の"物語"なら。