最後に、泣きじゃない!というのは単に俺がそう思った、ということで、
なお声が小さくなってしまうのだけど(w
ただ、この表現は何を指示しているかと問えば、「泣き」を指示しているんだ、
としか返しようがないようなテクストが、kanon以降あまりにも過剰になったように
思う。もちろんそこにただ乗っていけば確かに泣けそうな進行ではあるし、その意味では

>九〇年代に現われた新たな消費者にとっては、現実世界の模倣よりも、
>サブカルチャーのデータベースから抽出された萌え要素のほうが
>はるかにリアルに感じられる。したがって、彼らが「深い」とか「泣ける」とか
>言うときにも、たいていの場合、それら萌え要素の組み合わせの妙が
>判断されているにすぎない。九〇年代におけるドラマへの関心の
>高まりは、この点で猫耳やメイド服への関心の高まりと本質的に
>変わらない。
(114-115)

という処方はまったくその通りでなんというか返す言葉がない。ただ、これもkanon〜に
いえるのだけど、ギャルゲーならではの分岐、別な世界への可能性を
あらかじめ奪われた一本道のシナリオ上で「これでもか!」「これでもか!」
という「泣き」要素を投入されると俺などは慄然としてしまう。(テクストとして
読ませよう、という?)構造的な優秀さ/多層性をあらかじめ排除した一本道上で
「ドラマ」に乗ることも、「リアリティ」に乗ることもできない。そして、
「これはジャンクなのだから」(それゆえ入れ込む)と、まさにスノビッシュに
片づけることも出来なかった。喩えるなら、「アンリアリティ」の強度というもの、
により近いのかもしれない。そして、そのような感じ方があっても
よいのじゃなかろうか・・・という、まあ自我肥大な感想。

結局経験的なことばっかり書いてるな。
とりあえずはこんなとこ。