【未来】 2010 夏 【預言】
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0613かる ◆FR0SUGcqU.
2011/05/11(水) 09:02:03.93ID:c56X2Z4Z暦で今日は「長良川の鵜飼開き」が通年行われており、
以前>>557で記載したことのある奈良県の興福寺で「薪能」が行われます。
鵜飼。
鵜を使って鮎、鯉、鮒などの魚をとる漁のこと。これには鵜の頸を紐で縛り、自由に魚をとらせ、のどに魚がたまったら呼び寄せて吐かせる
「放ちづかい」と、のどを縛った首輪と背から腹にかけた腹掛けとをつないだ手縄を持ってウを操り魚をとらせる「つなぎ鵜飼」とがある。
なお放ちづかいのとき、ウに魚を追わせ、逃げてきた魚を網などですくいとる「逐(おい)鵜飼」の方法もある。
鵜飼の歴史は古く、7世紀の史書『隋書』倭国伝に北九州あたりの記述として載っている鵜飼は放ちづかいで、
第二次世界大戦後まで佐賀県や島根県に冬季放ちづかいの鵜飼を行うものがあった。
これに対し『万葉集』に歌われている鵜飼はおそらく夏季のつなぎ鵜飼で、地方の役人たちでこれをスポーツとして楽しむものもいた。
鵜飼をスポーツとして楽しむ風は近ごろまで各地の農民の間にもみられたが、その多くは冬季の放ちづかいの鵜飼であった。
夏のつなぎ鵜飼は、通例篝火(かがりび)を用いる夜の鵜飼であるが、その効率の優れているため、他の川漁者の反対で夜漁をやめ昼の鵜飼に変わった所もあった。
平安時代から武家時代にかけて鵜飼は献上鮎を供給する源として、君侯の特別な庇護を受け、そのおかげで、川筋の広い範囲に鵜飼を行ってきたものが少なくなかった。
岐阜長良(ながら)川の鵜飼などもその顕著な例で、明治維新後は宮内省の御用を勤め、厚遇されてきた。
「放ちづかい」「つなぎづかい」のいずれも、水中を歩いてウを使うものと、船の上からウを使うものとの区別があるが、夜のつなぎ鵜飼には船上から、
1人で数羽のウを操る巧妙な技法がみられる。放ちづかいをはじめ簡単な鵜飼にはすぐ慣れて使えるカワウでよかったが、
複雑な技法で操る鵜飼には長い訓練に耐えるうみうが使われる。
鵜飼はその技法が珍しく、これを眺めるのも楽しく、とらえたアユの賞味もできるので、かつてしばしば君侯の上覧に供せられ、民主化が進むにつれて庶民の観光資源として尊重されてきた。
今日栄えている鵜飼は、岐阜長良をはじめ、大分の日田、福岡の原鶴、広島の三次、高知の伊野などみな観光的なものであり、
このほかに観光客誘致のため近年復活されあるいは新たに始められた鵜飼もある。
以上は日本の鵜飼について述べたのであるが、鵜飼は中国大陸でも古くから行われている。
東北部の松花江などにも鵜飼がみられるが、盛んに行われるのは中国中部の江蘇(こうそ)、安徽、浙江から南の福建、広東、広西の諸省、それに西南辺境の四川、
雲南においてである。多くは濁った河川運河で鯉、鯰など大きな魚をとる実用的な漁であること、いずれも昼間の放ちづかいで、なかには首輪も用いず、
鵜が魚をとったのをみるとこれを吐かせて手網などですくいとるもののあること、船鵜飼でも竹の筏舟を用いるものや、小舟二つをつないだものに片足ずつ乗せて鵜を使い、
この二つの小舟にウを乗せて担ぎ、各地へ移動するもののあること、その使う鵜はシナカワウで日本のように野生のものをつかまえて訓練するのでなく、
人工孵化したうえ訓練したもので、ウの卵を人工孵化する専門業者のいることなどを特色とする。
なお鵜飼は、16世紀から17世紀にかけてヨーロッパにスポーツとして受け入れられたこともあった。
薪能とは。
奈良興福寺の修二会の際、大和猿楽四座によって夜ごと薪をたいて演じられた神事能。幕末で廃絶したが、近年復興し、5月11日・12日に行われる。
主として夏場の夜間、能楽堂、もしくは野外に臨時に設置された能舞台の周囲にかがり火を焚いて、その中で特に選ばれた演目を演じる能。
「薪の宴の能」の意。起源は平安時代中期にまで遡り、奈良の興福寺で催されたものが最初だという。
興福寺では、現在5月の11日、12日に薪能が行われている。ただし興福寺では薪御能(たきぎおのう)と呼ぶ。
また、薪御能の源流はあくまで神事・仏事の神聖な儀式であるので、野外で薪を燃やしたりすることは薪能ではないとしている。
現在、各地の神社仏閣(日前神宮・国懸神宮、平安神宮、長田神社、増上寺、神田明神、生国魂神社など)や庭園(大阪城西の丸庭園、新宿御苑など)で催されている。
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