ちょっとまってくれ、、
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2009/01/22(木) 16:30:00ID:pKpYbnkEというようなものは、引き寄せの法則や、NLP的な意識の明瞭化、
それらは、無意識が扱う情報のコントロールというような解釈で一致するのだと俺は思うのだが、
これらの無意識の働きを、それぞれの法則として学習する以前から、
人は、そこまでの水準ではないにしろ、同様の働きを無意識にさせていると考え、
「芸術家」というものを考える。
上で書いたAを「人間レベル」で実行する人について思うことがある。
人間らしさの追求ということになる。
より多く・純粋に・メリハリのある形で「人間らしさ」を出力できるように
ひとりの人間としての状態、それを取り巻く環境を、無意識に操作していくことになる
という可能性が思いつく。
ここで無意識に求められた己の状態と環境は、何と表現すればいいのだろう、
幸せな安定した環境ではなく、苦悩に満ちた環境であるのではないだろうか。
「生命が試される」問題への回答が「生命らしさ」であるからだが、
本当に「こう」ではくてはならないのだろうか。不遇すぎる。
大体、人生経験豊富という状態は、
過酷だったり例外的だったり、逆に規則に従った憶えであったり、
Aの帰結は、多角的に生命を試すというものに繋がるしかないのだろうか。
「生命を試す」という方法論からは抜け出せないままだ。
芸術であっても、芸術的才能などという具体的なものは、
Aよりも@における、何らかの真理や未解明の法則のシミュレーション又は関数の発明
という領域で評価されるだろう。最近では、既存の科学的法則・自然法則の芸術的応用方法といった
歩幅を狭めた進み方もあるようだが。
何が言いたいのか良く分からないが、Aは危険であるという思いが飛び出た。
しかし、危険はAの在り方である可能性が高い。
唯一の在り方なのか、在り方のひとつなのか。
@でもBでもない人達は、自ら過酷な状態・環境を呼んでしまうという仮定を、
カルマなんていう概念で説明するより、画期的な解決方法があるはずだ。
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