人々を導いていく過程において重要なことは、無謬の言論は不毛であることに気付くことではないか。
如何に個人の精神に侵食する語彙を吐くことが自身に可能かを追究しなければ、誰も自らの言葉に耳を貸すことはない。ある男が問いかけた言葉が耳から離れない。
みんな、固定概念を捨てるべきだ。しかし、それ自身が固定化された概念であることに気付けない者を私は賢者と呼ぶに相応しいとは思わない。またある男はこう問いかけた。
何かがおこる前に話し合いで解決することが大事である。男は歴史から何を学んだのだろうか。その思想の延長線上に国際連盟があり、時代に対して無力であったことに気付かないのだろうか。
社会は少数の賢者と多数の愚者によって形成され、それが普遍的であり、必然である。しかし、賢者という存在は既存ではなく、社会が形成した時流によって誕生する新たな懸け橋であり、彼らがその世界に台頭した時には、また彼らも愚者と化す。
人類の方向性を決定付ける要因は、言論では有り得ない。それは、目に見え、肌で感じる体現された客観的事実であり、私達はそれを真理であると信じて止まない。賢者に必要なのは知識ではなく、教養の高さだ。
彼らの精神論こそ、愚者が飽食する餌なのだ。では何故、私達は理由を求め、それ無しでは進歩と調和は有り得ないのか。それは、人間が情緒的であることこそ、美徳であると理性が察している他なく、合理主義ほど不快なものはないことを私達は知っているからだ。
だから、観念を革新させるには言論による圧力ではなく、唐突な確信こそが必要である。そして、私達は弱者であり愚者であるという自覚を一人一人が持つことこそ、人類を進歩に繋げるであろう。個人が人類に英知を与えようなど多勢に無勢なのだ。
例え相手が個人であったとしても。