音楽における精神性とは、
極論すれば、作曲家が音に込めた想いみたいなものだ。
精神性の深い演奏とは、たとえ楽譜の指示に従わずとも、
音の裏側にある作曲家の深い想いさえ表現されていれば
(あるいはそれを感じさせてくれれば)、
それでOKというものだろう。
多分フルトヴェングラーはその典型であり、
トスカニーニも楽譜に忠実(?)という仮面の裏側に
このアプローチへの意識があったと思われる。
(つまり「新即物主義」も精神性追及のひとつのスタイル)

そこでカラヤンだが、
この人はおそらく作曲家が曲に込めた精神性などより
徹頭徹尾自己の美的感覚で曲を磨き上げることの方を
演奏の最大目的としていたのではないか。
もちろん叩き上げのオペラ指揮者でもあったから、
曲のストーリー性をも無視することは少なかったが、
音の裏側にあるものを追求する気は
多分さらさら持っていなかったように思われる。

精神性重視のアプローチは、
演奏家のパーソナリティへの依存度合いが大きく
ときには演奏家の浅はかかつ勝手な思い込みを正当化してしまう。
最近の演奏家が「作曲家の意図」と口にするときは、
作曲家が想定した音色や演奏様式等を指すことが多く、
実際の演奏では精神性という概念をむしろ避けているフシがある。

カラヤンの精神性軽視(?)は、この点で極めて現代的といえるが、
何よりも自己の美意識を最優先させたという点では、
他に類を見ないある意味特異な存在といえる。
それが悪いという意味ではなく、むしろそれゆえに
今でも世界中の数多くのファンが
カラヤンの美的感覚に酔いしれているのだから、
やはり偉大な指揮者であったと言わざるを得ない。

まぁ、好みは別だけどね。