>>46
いいねいいね。鋭いねえ。
そこなんだよ、問題は。
あなたの言う通りで、「テクスト論と似た」考えを持つ人ならば、
そんなことはあり得ない。
少なくとも問題発覚後も、作品を書いたのが佐村河内だろうが新垣だろうが関係ないと言わなければならなかった。
だからあの「ステレオサウンド」の文章は何だということになる。

俺の考えでは、許さんは「建前上」はテクスト論の人だと思う。
もっと言えば、新時代の若手として、文学部博士課程出身者(文学理論を学んだ研究者)の音楽評論家として
自分を売りだそうとした人だと思う。
フランスの現代思想やドイツの現象学〜受容理論を音楽評論に援用することを「売り」にした面があると思う。
そのためには自分が「推す」音楽は、チェリビダッケでなければ「ならなかった」。
音楽評論界の蓮實重彦にでもなろうとしたのかね。

故に馬脚を露わすことがあるということか。
クラシックというテクストを読むときに、そこに流れ込んでいる(織り込まれている)豊かさへの志向を読み解くことは
意味ないことではないはずなのに、どうしてそれが単なるセレブ趣味とも受け取られかねない事態となるのか。
単なる印象批評、いやそれ以下になるということね。
このあたりのことについてもう少し考えてみたい。
>>34氏、ならびに>>46氏あたりの意見をもっと聴いてみたいね。