「世界最高のピアニスト」(光文社新書)P.59より引用

 かくも見事なケンプのバッハ集だが、実は私には苦い思い出がある。
あれは今から四半世紀前、私がまだウブな大学生のときだった。
そのとき好きだった女の子に、「これはすばらしいよ」と、大事にしている
レコードを貸したのである。

 後日、彼女は「確かにあのレコードはいい」と言ってきた。
「○○クンも、これはいいと言っていたよ」。 何、あれを他の男と聴いたのか。

私はひどく侮辱された気がした。強い憎悪を抱いた。あの女はこのすばらしい
演奏を他の男と聴いたかと思うと、女を、そしてもちろん男を許し難く思った。
おまえらにこの音楽のすごさがわかってたまるかと腹を立てた。