あの手の三流評論の怖いのは「通」になるとミュンシュやヴァントの良さが分かるというような刷り込みがなされること
良さがわからなければクソ耳という評価が言外に示されることだ

実際には「通」も「音痴」もありはしない 自分に合うか合わないかだけの話だ
全く個人的な感覚的なことを批評するということ自体が間違っている
それをもっともらしいものにするために「曲の構造が見える」というような音楽理論の客観性を装ったり
ひどいのになると「精神性」とかいう無意味な形而上論を持ち出したりする

三万円のフルコースより吉野家の牛丼がうまいと感じるのは味音痴だからだと言うのと同じ
どんなに素材が良かろうが時間をかけて下ごしらえしようが調理技術が織り込まれていようが「うまい」に理屈はない

ある批評のおかげで曲や演奏の良さが分かったというのは刷り込まれたということに過ぎない
レコ芸は長く刷り込みの三流評論の垂れ流しの担い手だった
売れなくなってきたというのは喜ばしいことだ