>>43
「世俗の聖化」か
それに対するカトリックは、聖と俗がはっきり分かれているからなあ
ヘッセの「知と愛」みたいに

ヘッセでは
「知・精神」=聖

「愛(愛欲)・芸術」=俗
が対比されているが
トーマス・マンでは
「(分析的な)知・市民性」=俗物

「精神・芸術」=認識者
の対比構造だから、両者は全く異なる

マンについて深く検討するとそれこそ大変だからやめとくけど、
俗物であるはずの市民性の中に、自己の出自としての一定の価値を認めるのは、
やはり19世紀のリューベックが、sich bildenした市民による「世俗の聖化」の街だったからであろうか?
(あっ、この2行は的外れな、意味のない駄文かもしれない)

マンにおいてはそれ以上にニーチェ由来のLeben(生)の概念や、「より強く美しい生のための、精神の自己否定(自己超越)」の問題が本道で重要だから