フェレットの脳を手術して、眼からの信号入力を受ける神経を聴覚皮質に繋ぐと、その聴覚皮質は視覚皮質に転用され視野の表象が起こる。
ただし脳の配線は可塑的ではないので、聴覚皮質自体の完全な転用はできないため、
その視野は上下方向が左右方向に比べ不正確で不鮮明なものになるといったように歪んだものになる
(トノトピーが周波数をそれぞれ左右方向に配列していることによる)。
聴覚皮質が視覚器官によって符号化された信号入力の処理にも、ある程度、本来的に適しているということは、
聴覚における周波数(ピッチの移動)と、視覚における空間(物体の移動)がよく似ていることを示唆する。
クラヲタ的に実例として分かりやすいのは、フーガのような対位法的多声音楽を聴いたときだろう。
「違うピッチを離れた別々の物体のように」&「ピッチの移動を物体の空間的移動のように」扱うことで、リアルタイムで各声部の動きを捕捉することができる。
いわば、ヒトは音楽を視る。

では、なぜヒトは単旋律よりも4声のほうが追って把握するのが難しいのだろうか。
かりに24平均律とか48平均律の調性システムに基づく、12声とか24声のフーガが作られたとしても、
おそらくヒトはそれらをカオスと見なすのではないだろうか?
記録された初期の音楽や、世界中にある民族音楽にフーガらしきものがとても少ないことから、
複数の独立した旋律を把握する能力は、音高やリズム認識ほどにはハードワイヤードな機能ではないと言える。
そう考えると、どこかで汎用回路を使って音楽を論理的に構築できるようにワーキングメモリを確保しなければ、西洋音楽の体系の高度な発展は見込めなかった。
そこで重要だったのがやはり紙の普及ですかね。記録して、また明日続きを構築できる。