テキスト主義的なポストモダンな演奏が流行した時代があったことは認めたい。
精神性とか魂かそういう世界の背後の実体的なものを認めない思潮が確かにあった。

ショルティなどはそうした時代背景があってあのような演奏をしたのだろう。
ショルティが同時代の思想をどれだけ研究していたかは分からないが、意図せずして
同時代の思想を反映するかのような演奏をするということは十分あり得る。
そして、それはそれでひとつの成果だったと思うのだ。

だが、もちろん、テキスト主義の哲学や、演奏スタイルも、批判されてしかるべきだ。

今は、ワルター・フルトヴェングラー的な方向性と、カラヤン・ショルティ的な方向性の
統合あるいは共存を模索している時代であり、ラトルやゲルギエフやティーレマンらの
課題はまさにそれであると思う。

問題は、ワルター・フルトヴェングラーから、カラヤン・ショルティを飛ばして、
いきなりラトル・ゲルギエフ・ティーレマンに行くリスナーもいるのではないか、
ということである。

つまり、カラヤン・ショルティの業績を十分理解し、評価することを経ずして、
ワルター・フルトヴェングラー的なものの再来を願うだけであるかのようなリスナー
の存在が問題なのだ。彼らの演奏史観は、どこかカルト的で、こう言っては悪いが
歪んでいるのではないか。

そうしたリスナーの生み出される最大の温床は、日本では宇野功芳とその一派
であることは言うまでもない。宇野と関係のない人物でも、宇野と似たような
ことしか書けない物書きや音楽ファンがいるのを見ると、私は情けなく思う。

断罪されるべきはショルティやカラヤンや小澤やアバドやマゼールやバレンボイム
では全くない。リスナーの耳と心が自ずと育つのをスポイルするような駄文を生産する
「音楽評論家」こそは断罪されてしかるべきである。