なぜこの議論が堂々巡りを繰り返すのか
>>273-274で考察し、結論は出ているはずだが、
いつまで歪められた理性の皮をかぶったインチキ論を展開するつもりなんだ
>>282はさ、もっと論理的に考えれば、きちんとした結論が出せるのにね
ということで、結論編

いや、もうほとんど答えは出てるのである。
クラシック音楽は再現芸術であるというのが、この問題における最大の論点なわけだ。
つまりは、聴衆は楽譜を読めても読めなくてもどちらでも構わないし、
読めることを求められるわけでもなければ、読めないことが何らかの意味を持つわけでもない。
結局、論理的には答えは導き出せないわけだ(議論の行き詰まりといった次元の問題ではない)。
それは倫理や美における正解が、論理からは演繹できないということと同じ意味を持つ。

だから論理的に自己を正当化しようとすることには問題がある。
どちら側の視点に立とうとも、楽譜を読めることは音楽を理解する上での絶対条件の問題でしかないし、
そこを無理やり推し進めることは、美の問題を捻じ曲げられた理性で押し切ることに他ならない。
われわれはカント以降すでに、ニーチェもフーコーもマルクス主義的芸術観の挫折も経験済みなのである。

楽譜を読めることの優越性を問うことはいい加減にやめよ。