スコアが全く読めない人間がプロの「評論」家を名乗るとはおこがましいっていうのが
本来の比喩の意味だろ。

原文のテキストに何が書いてあるかも理解できずに
日本語の訳書だけを読んで「この作品はひどい」と言ったり「この訳者はいい」というのが
ナンセンスな行為だということはわかるかね?

「評論家は音になって出てきた演奏を対象とする職業だからスコアは読めなくていい」
なんていう意見がどれほど的外れかぐらいはすぐわかりそうなものだが。

原文=スコアに書いてあることがまず読めなければ
訳者に左右されない作品本来の良し悪しは知ることができないし
訳者の優劣だってオリジナルからどう翻訳されてるかの過程自体がわからないから的外れになる。
宇野の常套手段である「(私が盲信する)ブルックナー像はこれしかない」という固定観念と
実際に鳴っている音との比較でしかものが言えないという情けない状態がそれだよ。

テキスト解釈の段階に差があるという>>419の主張は当然もっともなわけだが
(そうやって厳密に論じるならフランス文学でなく演者が介在するフランス語劇の評論に話を
 置き換える手もあるが、そこまで複雑にするとよけいわからなくなる人もいるだろうから)
いま問題にしてるのはそれ以前のもっと根本的な部分での話。