974さんにレスいたします。
いつかも引用しましたが「構想は、宛も奔流の様に、実に鮮やかに心の中に姿を現します。然し、それが何処から来るのか、どうして現れるのか私には判らないし、私とてもこれに一指も触れることは出来ません」
これは創意工夫とかそれ以前の問題です。「野性の鳥を飼えば死ぬか、生きてゆけても、本来の美は失われる」はずです。

モーツァルトとて生活の為に「仕方なく」書いた作品も数多あったはずです。どれとは言いませんが、彼の作品の半数以上は駄作であることがそれを証明しています。
クラリネット協奏曲(特にその2楽章)が、作曲の経緯はともかく、誰のためでもない、神の声を「無私なる心で」五線紙に書き留めたことは確かです。
ピアノ協奏曲24番(1・3楽章)などにはかりの創意工夫と言えば聞こえはいいが、自然さを欠き、明らかに邪念が入り込んでいます。
フィガロは「序曲とコンテッサ・ペルドーノだけあればいい」と言ったのも理由は同じです。他(すべてとは言いません)は明らかに「受け」を狙っている。

演奏とて同じでしょう。初めはある意図をもっていたとしても、いつか自然に「無私」が訪れ音楽と一体になる。そんな演奏に私は名演を感じます。

同列に語っては流石に恥じ入りますが私の授業とて同じ経験を何度もしております。意図や狙い通りにはゆかない、たとえ行ったとしても生徒との一体感は生まれない。
いつか自然とひとつの目的を共有できる瞬間が訪れる。大抵自分の「個」が消え「み人知らず」の調べを帯びた時です。