第2楽章も無限旋律のようだ。
各楽器の受け渡しがなめらかにつながれて、長大な旋律のようになる。
ことさら暗鬱なわけでもない。
センチメンタルでもない。
何も言わずとも聴けばわかるはずだという確信めいたものが感じられる。
ちなみにこの演奏が行われたのは1988年。
最晩年には遠いが、その気配は十分ある。
第3楽章も同様。
それどころかフィナーレもだ。
見通しよくさまざまな音が聞こえる。
フィナーレの何気ない部分まで実に丁寧に演奏されている。
それが滋味につながる。
実は、これは本当の大指揮者にしか起きないことだが・・・モーツァルトに限らず交響曲の各楽章は、テンポが緩急さまざまに設定されている。
にもかかわらず、最初から最後まで同じテンポで指揮されているように錯覚させられることがある。
実際にテンポがまったく同じというわけではない。
だが、そういう印象になるのだ。
これは何とも不思議な経験だ。
結果として全体の統一感は高まる。
なぜそんなことが起きるのか。
フレージングや音響の構成などが全曲を通じて統一されるということも理由だろう。
すべてのパートがきちんと音を聴かせるというのも大事なポイント。
むろんテンポの微妙な設定も。
その結果、音楽とはまぎれもない時間芸術であるにもかかわらず、まるで時間が止まっているかのような不思議な演奏が成就する。
チェリビダッケ、クレンペラー、それにこのスヴェトラーノフ。
そして、こんな演奏が成就してしまうと、細部の不備は気にならなくなる。
全体の威容があまりにも明白だからだ。