カラヤンの演奏は唯美的とか耽美主義とか評されるが、唯美的であることと、表面的な美であることとは、似てはいるが次元の違う問題でもある。
唯美的であるということは結果であって、唯美主義、耽美主義に陥らざるを得ない内面の葛藤なり苦しみなりあるいは喜びなり、
そういったものなしには主義としての耽美には至らない可能性があるからである。
実際、私が聴いてもカラヤンの演奏は美に対する飽くなき追求者という印象を与えるが、
だからといって、それが外面的であるということにはならないように思われる。
美に浸らなければならない何かを感じさせつつ、その何かについては具体的に見せない、そういった感じを、彼の演奏から受ける。