フルトヴェングラーとカラヤンの演奏にまつわる「精神性」の有無についての意見です(その2)。

カラヤンの伝記や発言集等を読むと当時の状況がよく解り、意外な事実も知ることができる。

当時はフルトヴェングラーとトスカニーニが「人気」指揮者であり「流行」を二分していた。
カラヤンは、その二者のスタイル(夢想と厳格さ)の融合を目標としていたと明言している。
二者を尊敬し、模範とし、さらにフルトヴェングラーという先輩を好敵手として位置付けて、
かつてない(といえる)仕事を成し遂げた稀有な存在として、私はカラヤンを高く評価する。
三者とも20世紀の演奏芸術における真の巨匠であり、革命的な業績を残したのではないか。

「精神性」という言葉は曖昧な定義で使われることが多く、乱発すると思考停止を証明する。
「精神性」が「ある」か「ない」かという二項対立を持ち出すのは、いささか乱暴な方法だ。

カラヤン・ファンであることと、フルトヴェングラー信奉者であることは二律背反ではない。
むしろカラヤンの演奏スタイルには、フルトヴェングラーの影が見え隠れしている感がある。

晩年、ザルツブルグでの「ドン・ジョヴァンニ」公演後に、楽屋裏でカラヤンが語っていた。
「フルトヴェングラーでも、こんなすばらしい演奏はかつてなかったと言っただろうよ!」
このようにカラヤンは、死ぬ2年前でもフルトヴェングラーの存在を意識し、目指していた。

音楽評論家の意見に過剰に惑わされると、多くの名演奏に目を瞑ることになり、損だと思う。
カラヤンをフルトヴェングラーの正統な継承者と認めて、真摯に耳を傾けては如何だろうか。
フルトヴェングラー信奉者にも満足が得られ、「精神性」なる言葉が死語となる日を願って。