「すでに失われた何かを救出すること、
拘束力のある伝統が廃れようとしているときに失われ始めようとしているものを演奏のために取り戻すことに気を配った。
この救出の試みのため、彼は過剰にタクトを振ったが、
その祈りが探し求めているものは、もはや純粋に直接的には存在していないものである。」アドルノ

フルトヴェングラーの録音が放つ魅力を支えている二重の喪失がある。
フルトヴェングラーのナイーヴな、直接的な有機性をもった情熱に我々が魅了されているだけではない。
我々を魅了するその失われた対象そのものは、既にある種の喪失を伴っている。
だから、フルトヴェングラーの情熱は、ある種のトラウマ的な強度に満ちていた。
それは、現代世界においてすでに危険にさらされ、もはや「場所」を失っていたものを我々の伝統の一部として救済しようという
致命的な試みに相応しい切迫感に満ちていた。
だから我々がフルトヴェングラーの録音を聞きながらもう一度捉えたいと望んでいるものは、
クラシック音楽の有機的な直接性ではなく、むしろ、我々にはもはや接近することのできない喪失それ自体の有機的-直接的な経験である。
この意味で、我々がフルトヴェングラーに魅了されるのは、最も純粋なかたちのメランコリーである。
この点で、グールドにも全く同じことがいえる。