>>62
ご丁寧なリプライ、ありがとうございます。
生まれてこのかた「誠実な人柄」などと言われたことがないため
(しかも2ちゃんという場で!)、
飲んでいたキリン生茶が気管に入ってむせってしまいました。

>というのは、アドルノの問題意識というよりは芹沢博士の問題意識と感じられます。

ご指摘のとおり、かなり脳内補完が入っていて
「マイ・アドルノ」に近いものかもしれません。
まぁ、研究者でもなんでもない一介の市井人が、
アドルノのクソ難しい文章を読み通すのは
(しかもわざと簡単に読めないように書いてあるのが憎らしい)、
自分の問題意識に相当強引に引き付けでもしない限り、
かなり厳しいところがありますので。

ただ、そういう事情は別として、貴兄がおっしゃるように、
1930年代にはアドルノはアドルノとして“出来上がっていた”となると、
逆に、1940年代に彼が経験したはずの多くの事柄、例えば
ユダヤ人の虐殺(広い意味で親友ベンヤミンの死も含めて大過ないでしょう)や
自身の亡命経験(カリフォルニアはアドルノにとって“文化の果つる地”だったようですね)は、
いったいどのような意味を持っていたのかが気になります。

1940年代の経験は、1930年代にはすでに事実上仕上がっていた彼の理論に、
その正しさを裏付けるための歴史的結果でしかなかった、ということなのかどうか。
そのあたりはどうお考えですか?